過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【信仰共同体における「所属感」と「精神的孤独」 】2025.10.5

ともあれ翌年は希望する大学に入った。東京暮らしでたくさんの面白い世界があっただろうに、創価学会の組織、創価の教義の枠に捉えられていく。地域では創価学会のブロック組織の会合、大学では大学での学内組織と組織活動に中途半端に関わっていく。

折伏しよう」「池田先生におこたえしよう」「日蓮大聖人の教学を学ぼう」えいえいおー!みたいな元気な会合ばかりで、どうもわたしは肌に合わなかった。といって他のサークル活動も参加することなく、といって授業に出ることもなく、学ぶこともなく、中途半端にアルバイトして、今思うとまことにもったいない大学生活であった。

信仰というのか、宗教教団に属していると、その教えのみが正しくて、他は劣っている間違っているという刷り込みがあり、何よりいろいろな思想や哲学、いろいろな生き方があることに対しての学びの姿勢がなかった。
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1960年代後半から1970年代にかけて、日本の大学では「大学紛争」が頻発した。そのピーク時には、大学構内がバリケードで封鎖され、過激派学生による占拠が行われることもあった。

1960年の安保闘争以降、日本共産党から分派した「新左翼」勢力が台頭する。彼らは既成の政治体制を批判し、過激な運動を展開していく。大学構内は、新左翼各派が自らの思想を訴える「アジ演説」の拠点と化していた。

イデオロギーはもはや宗教の様相を呈し、互いを「敵」と見なしては大学構内で暴行や殺害事件を引き起こした。凄惨な「内ゲバ」(内部ゲバルト)が繰り広げられたのである。

私が受験する前年(1972年)には、早稲田大学で「川口大三郎事件」が発生した。革マル派の活動家によって、無関係の学生が中核派と誤認され、リンチ殺害された事件である。

受験日には、「あさま山荘事件」が起きていた。長野県軽井沢の保養所で発生した、連合赤軍メンバーによる人質立てこもり事件(1972年2月)であった。
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早稲田大学革マル派の拠点校であったため、常に暴力の臭う危険な空気が漂っていた。入試当日には、機動隊員およそ50名が校門前に並んで警備する異様な光景が広がっていた。

キャンパス内では、新左翼のデモやアジ演説、立て看板が日常茶飯事であった。機動隊の構内出動も頻繁にあり、新左翼各派の主導権争いが絶え間なく続いていた。

また、1960年代後半はベトナム戦争への反発が世界的に高まり、日本の学生たちの間でも反戦運動が盛り上がりを見せていた。
彼らは初期マルクスや『資本論』、社会科学や社会思想について熱く議論していた。一方、私は創価学会の一員として仏教思想を学んでいた。両者の間に対話が成立する余地は、ほとんどなかった。

マルクスがどうのヘーゲルがどうの、レーニンがどうの毛沢東が、国家とは、主権とはみたいな論議が盛んだった。私は、何を言っているのかさっぱりわからなかった。

いま思うと、難しいことをまくし立てていた学生自身、自分の言っていることを理解していたとは思えない。フランスの大学から端を発した世界的な学生運動は、いわばファッションというのか、ひとつの流行、麻疹(はしか)みたいなものだったなあと思う。

そうした風潮の中、創価学会に属して活動するのは、まことに地道というか仏教なんて古臭いと思っていた。けっしてカッコいいとは思っていなかった。マルクス主義や社会科学に対して、気後れしていた。

しかし、内心では、「この仏教こそが最高だ。人間革命こそが究極なんだ」という気持ちもあった。しかし、それを言葉にする力はなかった。かれらの使う言葉がまったくわからなかった。

マルクスの「ヘーゲル法哲学批判序説」みたいな論と、「仏教の十界論、一念三千論」とでは、まったく会話の交流が難しかった。
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そうした時代の只中にあって、私はまじめに授業にも出ず、かといって趣味に没頭するのでもなく、ただ創価学会の活動に参加するという、きわめて中途半端で、もったいない青春時代を過ごしたのである。

当時の新左翼的な熱狂にも違和感を抱き、かといって創価学会の組織に確固たる自分を見出すこともできなかった、葛藤と無力感の時代だった。

「仏教そのものを学びたい」という意欲はあった。しかし、それを深めてくれる先輩や師匠に出会うことはなく、硬直した日蓮主義、創価学会の教義の範囲内で学びを閉ざしてしまっていた。

当時は、創価学会日蓮正宗の総本山である富士大石寺に「正本堂」を建立・寄進した時代であり、学会が最も勢いに乗っていた時期であった。

私は創価学会の組織の熱気と力を肌で感じ、池田大作氏のカリスマ性を実感した。東京における学会員のネットワークも素晴らしく、先輩たちから学ぶべき点は数多かった。

田舎から上京して孤独な生活を送る私にとって、同志の存在は心強く、良き先輩に恵まれたことは誠にありがたいことであった。人柄の良い先輩も多く、中には今なおお付き合いを続けてくれる先輩もいる。
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とはいうものの、当時の私は「頭でっかち」であり、いわば頭と体が分離していた。日蓮の教義を頭だけで理解しようとしてもわからず、かといって実践に打ち込むわけでもなかった。組織の熱狂に身を委ねることも、私の体質には合わなかった。

そして、日蓮以外の思想は劣っていると決めつけ、深く探求しようとする謙虚さを持たなかった。ひとつの宗教に没頭すると、他の宗教や思想、学問を探求する姿勢を失いがちである。

結局のところ、最も欠けていたのは「学びの姿勢」そのものだった。学べるときに学ばなかったというまことに「もったいない」青春時代であった。その反省がいまの自分には常にある。だから老いても「学べるときに学んでおこう」と。