【 声に出して読む、声に出して祈る】2025.10.5
交通事故に遭ったことがきっかけで、創価学会との関わりが深まり、やがて活動家へと成長していった。良い先輩や同輩、後輩に恵まれ、語り合う時間は楽しいものであった。
信仰とは「信」を基本とするが、「行」と「学」が大切にされた。朝晩の勤行と唱題行、そして創価学会の活動への参加が「行」であり、日蓮や池田大作会長の著作を学ぶことが「学」である。
そして、私にとって最大の発見は、仏教、とりわけ日蓮の教学そのものの魅力に触れたことであった。
当時の創価学会では、「御書」(日蓮の法門や消息文を収めた、創価学会編纂による約2,000ページの全集)を読むことが活動の基軸に置かれていた。この日蓮の遺文に、私は強い魅力を感じた。
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私は御書を常に携え、「音読」しながら読み込んでいった。
御書は2,000ページにも及ぶずっしりとした重みと厚さを持っていた。内容は鎌倉時代の文体ではあるが、音読を重ねるうちに、不思議なことが起きた。著者である日蓮の思考の勢いに共鳴するかのように、リズムに乗ってすらすらと読み進められるようになった。
日蓮の文体は、同時代の『平家物語』のような戦記文学にも通じる力強さを備えている。弟子や檀徒に宛てた消息文は心のこもった励ましに満ち、私の生き方を支える精神的な糧となった。
もっと学びたい、そのためにはもっと読み込まねばならない。
ある時、私は背表紙を切り、七つに分割した手作りの分冊を作成した。それを日替わりで携行し、貪るようにして読み込んでいったのである。
また、小説『人間革命』(池田大作著:師である第2代会長・戸田城聖の半生と創価学会の草創期を描いた大河小説)も非常に興味深く、繰り返し読んだ。
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高校時代は池田大作会長との出会いをはじめ、感動的な体験は数多くあるのだが、今回は先を急ごう。
やがて大学受験に失敗し、東京で一人暮らしの浪人生活を送ることになった。
私は、朝晩の勤行(『法華経』の方便品と寿量品の読誦)と唱題行(南無妙法蓮華経を唱える実践)を、より真摯に行おうと決意した。
しかし、アパートでは声を朗々と響かせるわけにはいかない。近隣に迷惑がかかる。そこで、池袋にある日蓮正宗の寺に通い、唱題行に打ち込んだ。創価学会の会員がいつでも唱題行をしていた。
唱えれば唱えるほど、いわゆる「生命力」が沸いてくる。集中力が身につくのを実感した。
この浪人時代はさらなる挑戦として、「百万遍の唱題」を目標に掲げた。
私の唱えるペースでは、一万遍に約三時間半を要した。三十分唱えては、自作の記録用紙のマス目を赤鉛筆で塗りつぶしていく。「何があってもお題目」というような日々であった。
信仰が単なる観念ではなく、身体性と日常生活に根ざした「行」として確立していく過程とも言える。
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唱えるという行為は、集中へと自然に入っていく過程である。祈りそのものに没頭することだ。
創価学会の強みは、困難に遭遇するたびに祈りで乗り越えようとする点にあるのだろう。その実践法が、本尊に向かって「南無妙法蓮華経」と唱えるという「行」として、極めてシンプルに確立されているのが特徴である。「何か困難があったらお題目」というわけだ。「難を乗り越える信心」は、信仰の一つのスローガンでもあった。
南無妙法蓮華経と唱え続けると、ごちゃごちゃとした雑念が次第に収まり、心が澄み切っていく。なにをすべきかが、少しずつ明確になっていく。
幾度となく唱題行を行ってきたが、唱えれば唱えるほど集中力は養われ、心身に活力がみなぎり、祈りが叶うことを実感するようになった。身体が充実し、頭の中が整理され、すっきりとしてくる。余計なものが取り払われ、全身が柔らかく安定したオーラに包まれるような感覚さえあった。
なぜそうなるのか。
この唱題行は、祈りであると同時に、声の響きを用いた一種の呼吸法だとおもう。声に出すという行為にこそ、重要なポイントだ。また、集中の対象となる本尊(学会では曼荼羅)が眼前にあること、仏壇という落ち着いた祈りの場、いわば「ホームチャペル」が存在することが、効果を高める。
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では、祈りに効果はあるのか。祈れば叶うのか。それはわからない。
しかし、祈りによって人生の難局を乗り越えてきたという人々は確かに大勢いる。もちろん、そこには「思い込み」の要素も含まれているだろう。だが、「思い込み」が現実を動かす力を持つことも、また事実だろう。
ともあれ、信仰の核心は、「自分自身で祈る」という一点にあると私は考える。
はじめは願いを持って祈る。「○○してください」という願いの祈りから、「よし、大丈夫だ」という確信に近い心境へと移り変わる。さらに唱え続けると、「もうお任せします。願いが実現しても、しなくても、どちらでもよい」という境地に至ることさえあった。
願いへの執着が強い間は、祈りは叶いにくいのかもしれない。不思議なことに、唱え続けるうちに、執着が自然と手放され、「お任せする」という心境に至った時、祈りが叶ったりするのである。そんな体験も幾度かした。
とにかく、数を多く唱えるという行を実践した一年であった。この時期、一年間に二百万遍ほどは唱えたと思う。
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これは単に祈りを叶えるためというよりは、生活を整え、生命力を漲らせる行であった。同時に、結果として一種の「自己変容」というのか「内観法」のようなものにもなった。
唱え続けるうちに、みっともない自分自身の過去の振る舞い、格好悪い自分、恥ずかしい自分が、ありのままに照らし出されてくるのだ。
嫌な自分、恥ずかしい自分に思わず辛くなり、身をかがめたくなるようなこともよくあった。
しかし当時は、「南無妙法蓮華経だけが特別な力を持つものだ」と思い込んでいた。南無妙法蓮華経こそが唯一無二の究極の法であると信じ込んでいた。そのリズムから、朝日が昇るような勢いを感じ取っていた。
ずっと後になって、南無阿弥陀仏であれ、オーム・ナマ・シヴァーヤであれ、いろいろな体験ー重ねるに連れて、自分に合い、唱えやすく、心から尊いと感じられるものであれば、何でも良いのだと気づくのであるが。