過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【二度目の交通事故と父親】2025.10.5

【二度目の交通事故と父親】2025.10.5

ところで、私が交通事故に遭ったのは春のことだった。そしてその秋、ふたたび交通事故を起こしたのである。

家の前の切通しへと続く急な坂を自転車で猛スピードで下っていった。ブレーキを掛けたところまでは覚えている。次に気がつくと、周りに人がいた。

「あ、気がついたようだわ」「動かしちゃダメ」「救急車呼ばなくちゃ」という声を覚えている。どうやら自転車から転落し、頭をアスファルトにぶつけて意識を失っていたらしい。やがて救急車で運ばれ、入院することになった。一年のうちに、二度も頭を打つという大事故に見舞われたわけだ。
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これは後で知ったことだが、父は創価学会の人から、「ちゃんと創価学会の信仰をしないと、真言宗の害毒が現れる」と言われていたらしい。我が家はそれまで真言宗の檀家であった。といって、たんなる檀家で信仰していたわけではない。

真言宗の害毒とは、「家の柱が立たない」、つまり柱であるべき男親か息子に何かよくないことが起きるということである。これは、日蓮の四箇格言の一つ「真言亡国」に由来する短絡思考ー創価学会は「折伏教典」という書物を通して、布教というか罰論という脅しに使っていたのであった。

そうして、私は半年の内に二度も交通事故に遭ったのである。
父は信仰にはそれまで全く関心のなかったのだが、私の事故以来、朝晩、仏壇に向かって「南無妙法蓮華経」と唱えるようになった。

父親はもともと信仰とは全く縁のなかった。「お題目を唱えるなど、バカらしくてやってられるか」という気持ちでいたに違いない。
たまたま祖母が白内障を理由に創価学会への入会を希望したため、家族で入信したものの、父親自身は信仰の世界には足を踏み入れなかった。

それが私の交通事故をきっかけに、お題目を唱えるようになったのである。とはいうものの、会合には出席したかったわけではなかったが。
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父親にしてみれば、それまで息子とのコミュニケーションがうまく取れず、「何とかしてやりたい」という親心があったのだろう。
そこへきて、長男である私が半年のうちに二度も交通事故で死にそうな目に遭った。父親はその事故をきっかけに、ようやく私との溝を埋めようとしたのだと思う。

私の方は、父親とのやりとりはいつも重苦しく、心に残るような会話をした記憶はない。そのことを今になって振り返ると、父親に対して申し訳ない気持ちになる。

父親は晩年、肺がんを患った。そして、かなり苦しんで死んでいったと思う。私はといえば、東京でサラリーマンとして暮らし、実家には滅多に帰らなかった。

手術の際には帰省していたものの、父親の最期の苦しみにはほとんど共感することはなかった。
そして今、今度は私自身が間質性肺炎という苦しみを体験しているのである。
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この夏、ある整体の先生に診ていただいた。その先生はとても清々しい風貌で、霊的なこともわかる方のようだった。

私の体に触れて、「まだエネルギーが入っているから大丈夫ですよ」と安心させてくれた。整体が終わった後、先生は何気なくこう言った。

「あ、お父さんとうまくいってなかったみたいですね」「そうなんです。ほとんどやりとりはなかったです」「お父さん、亡くなるときにとても苦しかったようですよ」

たしかにそうだったのだ。母親については、よく色々と思い出すことがある。娘のあかりなどは、母親の生まれ変わりではないかと思うほどだ。しかし、父親については、ほとんど思い出すことがなかった。一緒に遊んだ記憶も、実に少ない。とにかく、煙たい存在であった。

因果は巡るというのか。過去のカルマが精算されていくというのか。シンクロニシティーというのか。因縁の世界というのか。
まあ、そのあたりのことは、探求してもわからない。わからないけれども、何らかの因縁、複雑に絡み合った糸のようなものがあるのだろうと思う。
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春と秋の二度の事故、真言宗創価学会という信仰の対比、そして私の間質性肺炎と父の肺がん。

これらが単なる偶然の出来事ではなく、一本の見えない糸で繋がっているかのような「巡り」ともいえる。整体師の先生のふと問いかけてくれた言葉が、その見えない糸を浮かび上がらせるきっかけになったようだ。

人生で予期しないことが起きるのは、当然のありよう。明日のことさえ予想はつかない。私たちは、そうした不確かな世界に生きている。ただ、そのことに普段は気がついていないわけだ。