①【思い込みの檻】2025.10.2
「全ては思い込みの世界であり、思いによって自分が形成される」
信仰とは、思い込みの世界であるがゆえに現実に力を発揮する。しかし、そこには不自由さも伴う。
教団組織では、一人ひとりの思い込みが人と人との間でウェブのように重なり合い、集合的無意識によって現実が変容していく。
だからこそ、信じることで力が湧く。そして、信じることで得られた体験を共有することで、さらに信仰心が深まり、それが新たな力を生み出すという循環が生まれる。
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教団組織に身を置くと、教え教えられ、励まし合い、支え合う関係性が築かれる。心を通わせた友人との対話が生まれ、安心感、安定感、役割意識が育まれる。これが集団信仰組織のあり方である。
深く信仰していなくても、そのコミュニティに属すること自体にメリットはある。一種の異業種交流の場ともなる。同じ信仰者・会員であれば、仕事の機会があれば互いに回し合う。異なる業種や年代との交流から、考え方や情報を広く得られるのだ。もちろん、組織に馴染めずに苦労する人、集いそのものを面白く感じない人も大勢いるだろう。
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「信仰」とは、自分を超えた偉大なものを信じ続ける行為である。
それが力の源であると同時に、厄介な側面の根源でもある。
神仏から力をいただけるというありがたさがある半面、そこには「恐れ」も生じる。ゆえに、ひとたび信仰の世界に入ると、抜け出しにくくなる。
組織のカルト的な度合いにもよるが、信仰や組織から抜け出そうとすれば「地獄に落ちる」「不幸になる」といった恐怖で縛られる。その組織以外の世界で生きていけるとは思えなくなってくる。
それは神仏の教えであるため、非常に強烈な刷り込みとなる。
さらに、信仰者のコミュニティからは「退転者」というレッテルを貼られ、軽視や軽蔑の対象となる。それを気にしない人なら問題ないが、多くの人は人間関係に縛られてしまう。
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また、信仰は「わかった」という思い込みを生む。あるいは「わかっていないけれども、学び続ければいつか理解できる」と思わされる。信仰や活動の先に、必ず「答え」があると信じ込むようになる。
信仰は安心感や成長の糧となる一方で、教義という枠組みが構築され、分かったつもりになってしまうのだ。実際には何も理解していないのに、その「理解していないこと」すら自覚できないという状態に陥る。
「どうしてだろう?」という本質的な疑問を持たなくなる。 疑問が湧き起きないように仕向けられていく。
あるいは、疑問が浮かんでも、既に用意された回答がある。「学べば理解できる」「理解できないのは自分が未熟だからだ」と思い込む。結果、思考は強く縛られ、精神活動は不自由になる。
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「この教えは正しい」と信じ切ってしまうと、他の思想や宗教を蔑視するようになる。「こちらが正しく、あちらは間違っている」という思い込みは、自分自身の生き方を真摯に探求する機会を奪う。ある意味、思考の奴隷となる道である。
特に宗教二世にありがちなことだが、自己選択・自己決定の機会がないまま、親の強制で信仰の世界に入ると、それは辛い現実でしかない。
私は宗教二世ではないが、当時小学校4年生(10歳)で、一家揃って創価学会に入信した。それは自分の選択ではなかった。
幼少期から20代まで、信仰による束縛、圧力、恐れを感じ続けていたと思う。
仏壇に安置されていた、日蓮聖人が図示したとされる十界曼荼羅(実際には、日蓮正宗の法主・日淳が書写したものを複製印刷した紙幅) は、子ども心に不思議な存在だった。祈れば願いが叶うが、軽視すれば罰が当たり、不幸が訪れると信じ込まされていた。
そして、信仰に反対したり離れたりして不幸になった人の体験談と、信仰に励んで幸福になった、願いが叶ったという体験談を数えきれないほど聞かされて育った。
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創価学会の本尊(十界曼荼羅)には、「供養するものは福が十号に過ぎ、悩乱するものは頭が七つに割れる」 と記されている。学会員はこの本尊を毎日、朝晩拝むのだ。
学会以外の本尊を拝めば頭が七つに破壊される、あるいは「心破作用七分」と言って精神が病むと脅される。これが心の奥底に刷り込まれる。
例えば、日蓮の「四箇格言」にある「念仏無間」——念仏を称えれば無間地獄に堕ちる——といった教えも強烈だ。あるいは「真言亡国」といって、真言宗を信仰すると国が滅ぶ。一家の柱を失う。「禅天魔」といって、全に入ると魔境に陥る、高慢になって見を持ち崩す、など。
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しかし、日蓮の表した本尊以外を拝んだからといって、不幸になるはずがない。頭が七つに割れるはずがない。念仏で地獄に落ちるはずがない。
理屈ではわかっている。脅しだと理解している。
それでも、学会員は信じ込む。他の宗教を試そうとしない。それは背後に恐れがあるからだ。
「今の信仰で十分だ。まだ行が足りないのだから、好奇心で道を外すのは得策ではない」 として、他の探求の道を自ら閉ざしてしまうのだろう。
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私はといえば、様々な探求の道を実験として歩んできた。自身の体験を通して確かめてきた。経典(『法華経』)に何と書いてあろうと、日蓮が何と言おうと、創価学会がどう言おうと、我が身で体験したことが大切だと考えてきた。
その突破口となったのが、30歳の時に日蓮宗のお寺で得た体験である。これは後述する。
これをきっかけに様々な宗教を遍歴し、それぞれの味わいを楽しむ中で、「宗教に優劣はない。それぞれが素晴らしい。何を選ぶかは縁次第。つまり、“何だっていい”」 と感じるようになった。(続く)】
「全ては思い込みの世界であり、思いによって自分が形成される」
信仰とは、思い込みの世界であるがゆえに現実に力を発揮する。しかし、そこには不自由さも伴う。
教団組織では、一人ひとりの思い込みが人と人との間でウェブのように重なり合い、集合的無意識によって現実が変容していく。
だからこそ、信じることで力が湧く。そして、信じることで得られた体験を共有することで、さらに信仰心が深まり、それが新たな力を生み出すという循環が生まれる。
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教団組織に身を置くと、教え教えられ、励まし合い、支え合う関係性が築かれる。心を通わせた友人との対話が生まれ、安心感、安定感、役割意識が育まれる。これが集団信仰組織のあり方である。
深く信仰していなくても、そのコミュニティに属すること自体にメリットはある。一種の異業種交流の場ともなる。同じ信仰者・会員であれば、仕事の機会があれば互いに回し合う。異なる業種や年代との交流から、考え方や情報を広く得られるのだ。もちろん、組織に馴染めずに苦労する人、集いそのものを面白く感じない人も大勢いるだろう。
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「信仰」とは、自分を超えた偉大なものを信じ続ける行為である。
それが力の源であると同時に、厄介な側面の根源でもある。
神仏から力をいただけるというありがたさがある半面、そこには「恐れ」も生じる。ゆえに、ひとたび信仰の世界に入ると、抜け出しにくくなる。
組織のカルト的な度合いにもよるが、信仰や組織から抜け出そうとすれば「地獄に落ちる」「不幸になる」といった恐怖で縛られる。その組織以外の世界で生きていけるとは思えなくなってくる。
それは神仏の教えであるため、非常に強烈な刷り込みとなる。
さらに、信仰者のコミュニティからは「退転者」というレッテルを貼られ、軽視や軽蔑の対象となる。それを気にしない人なら問題ないが、多くの人は人間関係に縛られてしまう。
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また、信仰は「わかった」という思い込みを生む。あるいは「わかっていないけれども、学び続ければいつか理解できる」と思わされる。信仰や活動の先に、必ず「答え」があると信じ込むようになる。
信仰は安心感や成長の糧となる一方で、教義という枠組みが構築され、分かったつもりになってしまうのだ。実際には何も理解していないのに、その「理解していないこと」すら自覚できないという状態に陥る。
「どうしてだろう?」という本質的な疑問を持たなくなる。 疑問が湧き起きないように仕向けられていく。
あるいは、疑問が浮かんでも、既に用意された回答がある。「学べば理解できる」「理解できないのは自分が未熟だからだ」と思い込む。結果、思考は強く縛られ、精神活動は不自由になる。
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「この教えは正しい」と信じ切ってしまうと、他の思想や宗教を蔑視するようになる。「こちらが正しく、あちらは間違っている」という思い込みは、自分自身の生き方を真摯に探求する機会を奪う。ある意味、思考の奴隷となる道である。
特に宗教二世にありがちなことだが、自己選択・自己決定の機会がないまま、親の強制で信仰の世界に入ると、それは辛い現実でしかない。
私は宗教二世ではないが、当時小学校4年生(10歳)で、一家揃って創価学会に入信した。それは自分の選択ではなかった。
幼少期から20代まで、信仰による束縛、圧力、恐れを感じ続けていたと思う。
仏壇に安置されていた、日蓮聖人が図示したとされる十界曼荼羅(実際には、日蓮正宗の法主・日淳が書写したものを複製印刷した紙幅) は、子ども心に不思議な存在だった。祈れば願いが叶うが、軽視すれば罰が当たり、不幸が訪れると信じ込まされていた。
そして、信仰に反対したり離れたりして不幸になった人の体験談と、信仰に励んで幸福になった、願いが叶ったという体験談を数えきれないほど聞かされて育った。
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創価学会の本尊(十界曼荼羅)には、「供養するものは福が十号に過ぎ、悩乱するものは頭が七つに割れる」 と記されている。学会員はこの本尊を毎日、朝晩拝むのだ。
学会以外の本尊を拝めば頭が七つに破壊される、あるいは「心破作用七分」と言って精神が病むと脅される。これが心の奥底に刷り込まれる。
例えば、日蓮の「四箇格言」にある「念仏無間」——念仏を称えれば無間地獄に堕ちる——といった教えも強烈だ。あるいは「真言亡国」といって、真言宗を信仰すると国が滅ぶ。一家の柱を失う。「禅天魔」といって、全に入ると魔境に陥る、高慢になって見を持ち崩す、など。
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しかし、日蓮の表した本尊以外を拝んだからといって、不幸になるはずがない。頭が七つに割れるはずがない。念仏で地獄に落ちるはずがない。
理屈ではわかっている。脅しだと理解している。
それでも、学会員は信じ込む。他の宗教を試そうとしない。それは背後に恐れがあるからだ。
「今の信仰で十分だ。まだ行が足りないのだから、好奇心で道を外すのは得策ではない」 として、他の探求の道を自ら閉ざしてしまうのだろう。
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私はといえば、様々な探求の道を実験として歩んできた。自身の体験を通して確かめてきた。経典(『法華経』)に何と書いてあろうと、日蓮が何と言おうと、創価学会がどう言おうと、我が身で体験したことが大切だと考えてきた。
その突破口となったのが、30歳の時に日蓮宗のお寺で得た体験である。これは後述する。
これをきっかけに様々な宗教を遍歴し、それぞれの味わいを楽しむ中で、「宗教に優劣はない。それぞれが素晴らしい。何を選ぶかは縁次第。つまり、“何だっていい”」 と感じるようになった。(続く)