過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【ブッダが言ったかどうか、経典に書かれているかどうか】2025.9.10

ブッダが言ったかどうか、経典に書かれているかどうか】2025.9.10

ブッダが言ったかどうか、経典にそう書かれているかどうか、難しい論議が湧いてくる。これは非常に面倒だ。そのための歴史考証も必要になる。

私は自分の実体験や身体感覚に基づいて書いているのであり、「ブッダがそう言った」からといってそれを信じているわけではない。

ブッダの言葉は一つの指標、一つのモデルとして、「ブッダがそう言ったかもしれない。その道があるなら歩んでみたい。観察してみよう」という探求の過程を生きている。

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「思考というものが止まるかどうか」という議論があるが、そうした体験は確かに訪れる。思考が静かになり、止まる瞬間は確かにある。ただし、そう表現しても、それは思考している状態かもしれない。ともあれ、思考や妄想は限りなく湧いてくるのが現実である。その至難さに気づくだけでも進歩だ。

そこに「ブッダがこう言っている」と権威主義的に持ち出す人には違和感を覚える。

ブッダが言ったかどうかは、私には関係ない。「イエスがこう言っている」というレベルである。なにしろ、「聖者であった人の言葉」を信じて生きてはいない。自分の身体感覚で真理をつかもうとしているのだから。

私は真理を語ろうとしているのではなく、探求の過程を客観的に事実として記述しようとしている。

「思考や妄想が止まるかどうか」について、私は静まると思うし、止まる可能性もあると考えている。

しかし、思考が「止められる」「止められない」という議論は、生き方に「役に立たない」と感じる。さらに、そこに「ブッダが言っている」とか持ち出されると、疲れる。

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ただし、こう言える。生きている限り、意識は縁に触れて生じる。それを止めることはできない。生きている以上、肉体がある以上、意識は発生するものだ(全身麻酔のような特殊な場合は除く)。

意識が生じた瞬間、「意識が生じた」と気づく。それが「自分がいる」という実感だろう。意識の発生した瞬間瞬間に気づくことで、意識の消滅が起こるかもしれないが、そこは深追いしない。意識と思考と妄想を概念規定もしない。

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私が言いたいのは、生きている限り「思考や妄想」は次々と生じるということだ。それを止めるのは非常に難しい。

そして思考や妄想によって、生きるエネルギーが漏れていくのは確かだ。とくに限りなく湧いてくる妄想だ。それは、深い瞑想やヴィパッサナーで思考や妄想が静まる時、充実感や安らぎが生まれることでわかる。

繰り返すが、「ブッダがこう言った」「経典にこうある」「だから思考は止められない」といった話は、哲学論に陥り「役に立たない」。

私は暮らしの中で、身体を通じて探求を続けている。「ブッダがこう言った、仏教ではこうだ」という話は複雑な論理に発展しがちだ。そうした権威を持ち出すつもりはない。ブッダはあくまで一つの参考例だ。

ブッダをリスペクトし、彼が示したかもしれない道を歩みながら、「さて、どうなるか」を探求している。それが私の世界だ。