【あらためてヴィパッサナーとは】2025.9.2
ヴィパッサナー瞑想というと、聞いた人は「瞑想」という固定観念にとらわれがちだ。
いわゆる「神秘的な世界とつながる方法」や「無念無想の難行」といったイメージ、あるいはオウムのような「怪しい」特別な修行と誤解する人が多い。
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ヴィパッサナーは、「ヴィ」(よく)「パッサナー」(観察する、洞察する、自分自身を)という意味である。
瞑想とは、想念(思考、雑念、妄想)が「冥」(くらやみ)になっていく(消えていく)こと。
想念が消えれば、そこにあるのは「いまこの瞬間の気づき」である。「いまこの瞬間」にこそリアルな人生がある。そのほか(過去と未来、ここ以外の場所)は概念にしかすぎないとも言える。
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だから、座るだけではない。座る、立つ、歩く、食事する、お茶を飲む――あらゆる機会が瞑想(自己洞察)になる。我慢して座り続けたり、マントラを唱えたりしない。自分のペースで「座る」「立つ」「歩く」「食事する」「お茶を飲む」。
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先日、私が参加した熱海の瞑想会には50名の参加者があった。多くの人がいたが、おしゃべりは一切しない。目と目を合わせることもない。ひたすら自分の「座る」「立つ」「歩く」に集中する。「食事」も瞑想そのものだ。いまここに集中する、実践だ。
ただ、私たちの合宿のために食事や片付けなどは、15名のボランティアが支えてくれていた。お寺も提供してくれた。
そして、会費はない。ドネーション、つまり寄付制である。
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ヴィパッサナーでは、拝んだり祈ったりすることもない。つまり、信仰や宗教ではない。それらと対立するものでもない。
いま流行のことばでいえば「マインドフルネス」にあたる。「マインドフルネス」そのものは、ブッダの瞑想法が源泉である。
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これは実践してみれば、「即座に」とは言わないが、かなり実感としてわかる世界である。
なぜ「即座に」わからないのかというと、人間はほとんど常に思考、妄想、概念の海にいるからだ。
思考、妄想、概念の海を離れ、収めるのは、もっとも難しい。
たった一呼吸の間に、膨大な思考が渦巻いているのがわかるだろうか。
だから、こうした道場でみんなでひたすらヴィパッサナーに徹する日々の意味がある。
一人では、雑念が入りやすい。集中が途切れることばかりだ。
雑念が消えて瞬間瞬間の集中が深まると、身体感覚でわかってくる。気づきの緻密な深みを体感するのだ。
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そしてそれは、その場限りではない。
日常の暮らしに生かすことができる。
「どのようにしてヴィパッサナーを体験するか。その方法は?」「ヴィパッサナーを暮らしに活かすにはどうしたらいいのか。その効果は?」
長年書いてきたことだが、また書き続けていこうと思う。
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観心非冥行
活在現在中
道場日常用
雑念去覚生
書き下し文
心を観るは冥行に非ず
活きて現在の中に在り
道場は日常に用い
雑念去りて覚り生ず
※「観心非冥行」(心を観るは冥行に非ず)とは、「観心(ヴィパッサナー)」とは、無念無想といった難行苦行(冥行)とは異なる、という意味合い。
「活在現在中」 (活きて現在の中に在り)
過去や未来の概念ではなく、「今、この瞬間」にリアルな人生がある。
「道場日常用」 (道場は日常に用い)
座るだけではなく、立つ、歩く、食事するなど、日常生活の全ての行為がそのまま修行の場(道場)である。
「雑念去覚生」 (雑念去りて覚り生ず)
思考や雑念が収まり消えていく(冥)ことで、今この瞬間への「気づき」(覚り)が生まれてくる。
「特別な修行ではなく日常における洞察」と、「雑念が消えていく先にある気づき」というテーマを、漢詩の形式に収めた。