【体は苦しくても心は自由:仏法学舎とヴィパッサナーの旅】2025.8.17
「池谷さん、苦しそうに見えますね」
仏法学舎の庵主、法道さんからそう言われた。
──たしかに苦しいですよ。身体が次第に衰弱して、かつて軽々とできたことが大事業になっています。トイレに行くために移動するだけで、息も絶え絶え。坐禅もなかなか辛い。でも、このヴィパッサナーが究極だと感じています。
「妙光さん(前庵主、昨年亡くなられた)を看取ったとき、はあはあ、ぜいぜいと息が苦しそうだったんです。でも、妙光さんは『体は苦しいけれど、心は苦しくない』と言っていました。そして、スマナサーラ長老に見守られながら静かに息を引き取られたんです」
──ううむ、そこですね。『体は苦しいけれど、心は苦しくない』。その境地を探求していきます。
「だから、池谷さん、いつでもこの道場を利用してね」
そんなやりとりがあった。ありがたいことだ。
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私は妙光さんや法道さんと42年前に出会い、以来お世話になってきた。
この仏法学舎を設立し、大乗仏教を見事に解説してくれた金田道綽師も亡くなられた。
また、学びの集いを主催し、後にテーラワーダ協会を設立した鈴木一生さんもいた。
今、40年ぶりに仏法学舎に再会し、ヴィパッサナー瞑想の合宿に参加している。金田師の見事な講義と温かい言葉、仲間とともに秩父や横須賀など学びの旅に出たときのこと、ともに学んだ仲間の顔や言葉、そして30歳の頭でっかちで若かった自分――そんな記憶が次々と浮かび、思わず涙がこぼれてきたよ。
金田道綽師は『法華経』や密教を軸に、仏教全体をわかりやすく解説するのが抜群に巧みだった。『大乗起信論』や『秘密曼荼羅十住心論』を入門書として展開し、私は日蓮主義や天台教学を超えて、広く大乗仏教を学ぶことができた。
とはいえ、当時の私は概念の海に溺れ、自己観察や洞察の実践には至らなかった。
むしろ「自分は知っている」「こんなに学んでいるんだ」という意識が先行していた。
次第に金田師から離れ、そんな折にスマナサーラ長老と出会い、テーラワーダ仏教の深遠さに触れることができたのだ。
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テーラワーダ仏教は、「無我」を基軸に、あらゆることを根底から説明できることに感銘を受けた。特に「エーヒパッシコ」(来て実践してみなさい、そうすればすぐ分かる)や「アカーリコ」(誰でも実践すれば理解できる、実証される)という言葉通り、実践すれば確実に理解できる点が素晴らしい。
この7日間のヴィパッサナー実践を通じて、ひとつひとつの動作を丁寧に確認することで、心が不思議な落ち着きに満ちていくのを実感した。ともに実践する人々の挙措動作も、静寂で穏やかな世界を体現していた。
ブッダの教えは哲学的・論理的にも精密で、量子力学や最先端の科学、宇宙論とも矛盾しないように思える(私がそれらを深く理解しているわけではないが)。
それどころか、科学が進むほど仏教の理論の正しさと矛盾のなさが立証されていくと感じる。哲学的・理論的な深さは圧倒的だ。
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しかし、大きなポイントは「実践すれば生き方や暮らしに生かせる」ということだ。決して難行苦行ではない。無理な行ではない。
ただ、ひとつひとつの動作を丁寧に確認していくだけのことなのだ。
とはいえ、それがもっとも難しいことではあるが。
ともあれ、熱海の仏法学舎を縁として、仏教の深遠な道をまた少しずつ歩み始めている。
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『仏法学舎偶感』
身衰心暢自逍遥
仏法深縁四十韶
瞑想実修観自在
無為大道歩迢迢
(書き下し文)
身衰えども心暢(の)び 自ら逍遥(しょうよう)す
仏法の深縁 四十韶
瞑想実修 観自在
無為の大道 歩み迢迢
(語釈)
・四十韶:40年の月日(韶は美しい時の意)
・観自在:ヴィパッサナー観察の境地 あらゆるものを価値観を入れずに観る
・無為大道:自然の理にかなった仏道
・迢迢:遠く長く続く様
この詩には以下の要素を込めた:
1. 身体の衰えと心の自由の対比
2. 40年にわたる仏縁の深さ
3. ヴィパッサナー瞑想の実践
4. 仏道の長い歩みへの決意