過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【『いま・ここ』に生きるヴィパッサナー瞑想】2022.8.17

【『いま・ここ』に生きるヴィパッサナー瞑想】2022.8.17

頭の良し悪し、智慧の有無の基軸は「リアリティに立つ」ことにある。智慧とは、「リアリティに立つ」ことを基盤とするものだ。
私はそう仮説を立てて探求している。
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「リアリティに立つ」とは、「いま・ここの現実、いま・ここの私」をしっかりと捉えることである。

それが欠けると、物事の本質を見失い、空回りする。
焦り、怒り、イライラ、悩みが生じる。

しかし、「リアリティに立つ」ことで、これらの感情から解放される。
動作はスムーズになり、コミュニケーションも円滑に流れる。嘆きや怒りからも自由になる。

だが人は、育ってきた環境や価値観、イデオロギー、教義、人生経験に縛られている。そのため、「リアリティに立つ」ことが難しい。

私自身、特にその難しさを感じてきた。「頭でっかち」で、頭が主導し、体は従うだけ。心と体がバラバラで、「心ここにあらず」の状態で行動していた。あるいは「概念の海」に漂い、生き生きと人生や暮らしに挑戦できていなかった。
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「リアリティに立つ」とは、できるだけ客観的に、つまり「あるがまま」に物事を見る・感じることだ。
色眼鏡をかけず、あるいは色眼鏡をかけていることに気づくこと。

「我」や「私」という主観を外す。これは非常に難しい。なぜなら、私たちは常に「我」「私」を中心に生きてきたからだ。

その「我」「私」が強いために、物事とのトラブルが起き、コミュニケーションがうまくいかず、怒りや不安、恐れが生じるのではないか。

しかし、「我」「私」を少しずつ手放すと、物事がスムーズに流れることが分かってくる。組織などを観ていると、「我」「私」が外れている人がいと、見事に調和して人が動くことも見えてきた。

ヴィパッサナー瞑想の目的は、その「我」「私」を少しずつ外していくことである。
一日でも実践すれば、その効果を実感できる。そこがすごい。
「我」「私」を手放すたびに、心が軽くなり、物事がうまく運ぶようになる。
もちろん、効果は人やその人の実践の取り組み方、集中力によって異なる。
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では、どうやって実践するのか。

一つの方法は「動詞で生きる」こと、つまり「いまの自分を動詞で実況中継する」ことだ。

たとえば、トイレに行く際も、「足を上げる、運ぶ、下ろす」と動作を意識し、「ドアのノブを持つ、開ける、入る」と確認する。食事でも「箸を取る、おかずをつかむ、口に入れる、噛む、飲み込む、胃に流れていく」と、動作を一つひとつ丁寧に捉える。

動作を細かく観察すると、たとえば「橋を渡る」という行為は、実は「橋は渡らない」ということになる。

「呼吸する」「橋を渡る」「鍋を取る」「食事」といった行為はすべて概念だ。

私たちは普段、「ひとかたまりの概念」で生きており、細かく「リアリティ」を捉えていない。「リアリティに立つ」ことができていないのだ。そこから思考するので、いろいろうまくいかないということになる。
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ヴィパッサナー瞑想は、どんな瞬間にも「リアリティ」に立つ実践を意味する。

「リアリティに立つ」とはどういうことか。

それは、動作や感情を内側から細かく観察すること、瞬間ごとの洞察とも言える。

たとえば、「呼吸する」は、「息を吸う、吐く」「体が膨らむ、縮む」という動作として確認する。
「橋を渡る」は、「足を上げる、運ぶ、下ろす」となる。
「鍋を取る」は、「手を伸ばす、つかむ、持ち上げる、下ろす」という動作に分解される。

このように、暮らしそのものを「動詞」で捉え、動作を確認していく。それが「いま」に気づきを入れること、つまり「いま・ここ」に集中することにつながる。
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人は動作だけでなく、感情も生じる。その場合は、痛みを「痛み」、重さを「重さ」と名詞化して確認する。疲れたら、「心臓の鼓動」「呼吸の苦しさ」「足の重さ」と細かく観察する。

ここで最も厄介なのは、「思考」が忙しく立ち現れることだ。

放っておくと、頭の中は思考という雑草で溢れる。そのため、思考の芽を早めに摘むことが大切だ。

どうするか。
思考が浮かんだら、「考えている」「思考」と言葉にして認識する。
それ以上追いかけず、流してしまう。そして、いまの動作や呼吸に戻る。
これを習慣化できれば、暮らしの質が変わる。
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言葉で説明すると、「なんて煩わしい」「なんてつまらない」と思うかもしれない。

しかし、瞑想合宿などで実際に体験すると、心の静けさやエネルギーの高まりを実感できる。まるで電池切れのバッテリーを充電するような感覚だ。

「いまに集中する」と、心は本当に平和になる。心の荷物が軽くなり、「反応心」で物事に対応しなくなる。いろいろやっかい事があっても、「あっそうなんだ」で終わりやすい。引きづらない。憎たらしい人とやり取りしても、「あっそうなんだ」と観察のほうが主軸となって判断したり裁かなくなる。

怒りが湧いても、「怒っている」と即座に認識し、心を管理できるようになる。怒りそのものはなかなか根治できないが、怒っても、その瞬間に怒りに気づいている。だから納められやすい。

以上が、私の心の観察の経緯である。これを継続し、どう変化していくのか、言葉で微細に表現していきたい。「言葉化する」こと自体が無理かもしれないが、これは私の性分であり、生き方だ。それを一つの技として、さらに磨いていこうとしている。

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『観実偈』

其一
智愚非関才学深
実相立処是霊根
今此分明観自在
虚妄脱落見天真

其二
動詞微観動作真
挙足下足尽法身
我執薄時流円滑
調和自然衆人環

其三
念起即覚不追攀
雑草思考早摘芽
戻来当下守霊山
反応心離静如月

其四
煩悩即認知自融
観心継続言語求
性分活法技磨尽
実相立処永悠悠

其一
智愚は才学の深きに関わらず
実相立処(じっそうりっしょ)これ霊根(れいこん)なり
今此(いまここ)分明に観自在
虚妄脱落して天真を見る

其二
動詞微(かす)かに観れば動作真なり
挙足下足(こそくげそく)尽く法身(ほっしん)
我執薄(うす)き時流れ円滑
調和自然にして衆人環(めぐ)る

其三
念起これば即ち覚り追い攀(よ)じず
雑草の思考早く摘芽(てきが)せ
戻り来って当下(とうげ)霊山(りょうぜん)を守れ
反応心離れて静かに月の如し

其四
煩悩即ち認知して自ずから融(と)け
観心継続して言語)を求む
性分の活法(かっぽう)技を磨き尽くし
実相立処(じっそうりっしょ)永(とわ)に悠悠たり

※語句の説明

「実相立処」→「リアリティに立つ」
「挙足下足」→「足を挙げ、足を下す」
「念起即覚」→思考が浮かんだら即気づく
「永悠悠」→永遠に続く安らぎ