【ゴールの見えない人生】2025.7.31
「よーい、ドン!」の合図で、みんなゴールに向かって走るものだが、娘のあかり(当時5歳)はゴールを目指していなかった。どこか別のところに走っていった。
「発達障害かもしれない、大丈夫かな」と心配になった。
あかりの幼稚園の運動会だった。コロナ禍の中、小学校と合同で行われた。親として見に行った。そのことを思い出した。
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みんなそれぞれ一つのゴールを目指して走る。そして、早い者が良いとされている。一位が素晴らしい、二位はその次。そんなふうに優劣がつく。あかりは、ただゴールを目指すことがわからなかっただけかもしれない。
でも、「みんなが同じゴールを目指して走り、優劣をつける」ということを、あかりは無意識に受け入れていなかったのかもしれない。
そうして、小学校に入った4月に「あかり、行きたくない。一斉授業なんてつまらない」と言った。親としては「まあ、せめて夏休みまでは頑張ってみようよ」と声をかけた。あかりは「わかった」と答えた。そして、7月の夏休み前。「おとうちゃん、約束したよね。7月まで頑張ったんだから、もう学校には行かない」。私は「うん、そうだな」と答えた。
人生のピストルの音は鳴っている。もう始まっている。走らなくちゃいけない。そして、今、走っている。あかりは、自分が目指したゴールを自分で走っていく。でも、自分が目指したゴールがどこにあるのか、わかっているわけではない。
わからないけど、走らなくちゃいけない。ただ、優劣をつけて生きるということはなくなっている。いろいろな多様性を学んでいるのだと思う。そして、何より「好きなことをすること」、「人生は自分で選択するということ」を、いつも伝えている。
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親としての私の人生は、何か決められたゴールを目指して走ってきた。いい成績、いい学校、いい会社。そして、一流企業に入れば出世コースを走ろうと。そんなゴールを目指して走り続ける人生だった。
しかし、ある時、その道、そのゴールを目指すことをやめてしまった。サラリーマンを辞めて、そのゲームに参加しないことにした。37歳のときだ。やめたら、自分で自分のゴールを決めなくちゃいけない。でも、どこにゴールを定めるのかわからない。どのように走るのかもわからない。道も見えない。そもそも、ゴールに向かって走るって何なんだ。そんな「問い」が湧いてきた。
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ともあれ、「好きなことを探求していけばいい」ということにした。まったくわからない中で、インドを旅したり、さまざまな人に出会ったり、仏教や宗教を探求していった。やがて、それが編集という仕事につながり、なんとかここまでやってきた。
そして、今も私はゴールがあるわけではない。どこを目指しているわけでもないような気がする。
ただ、リアルな現実として、「今やるべきこと」は常にある。瞬間瞬間に起きてくる。「立つ」「歩く」「水を飲む」「トイレに行く」「コンタクトレンズを外す」など、たくさんある。
明日までにやるべきことがある。明後日に何をするか。具体的に何をするかは、つねにある。
それを細かく丁寧に見てしっかりやること。それが、生きることに集中すること。
この「今」に集中する。丁寧に生きる。丁寧に集中する。そんなところに落ち着くのかな。