⑬【スマナサーラ長老のエピソード】2025.6.8
長老の説法は「問われれば答える」という姿勢だ。求めない人に折伏や布教を押しつけることはしない。生活の悩みや困りごとを受け、的確な生活指導を行う。そして、「絶対に手ぶらでは帰さない」とも語っていた。必ず「なるほど、そういうことか」という気づきを与えるのだ。
ただ、質問者が実存的に自分の問題として問わなければ、長老が深く答えてくれるかどうかはわからない。
私が「死にたいという人がいるんですけど、どうしたらいいですか」と尋ねると、「ああ、そういう人はどうせ役に立たないから死ねばいいんです」と答えるかもしれない。問いが当事者自身のものではないから、長老は深く踏み込まず、軽く流すのだ。
だが、本当に「死にたい」と悩む人が直接質問すれば、そんな答えはしない。深く、客観的に道を示してくれる。
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「思考」についての印象的な話がある。
「『考える』というのは大したことではないんですよ。本当にいいアイデアは考えることから出てきません。それは瞬間にひらめくものです。
考えることで、人は相当なエネルギーを浪費しています。考えが止まると、エネルギーの浪費がなくなります。すると、驚くほどの集中力が身につきます。突然頭が冴えて、ひらめきが起きます。」
その「考えが止まる」状態、思考のエネルギーを浪費しないための実践として、ヴィパッサナー瞑想があると言える。すなわち、「吸う息・吐く息」に意識を向ける。吸うと体が膨らみ、吐くと体が縮む。「膨らみ・縮み」に意識を集中する。
体の動きに意識を向ける。だから、なるべくスローモーションで、まるで重病人が動くようにゆっくりと立ち上がり、座り、手を伸ばす。そのことで、「いまここ」の気づきが増す。人生は、まさに「いまここ」にしかないのだ。
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パーリ仏典と大乗仏典を比べると、パーリ仏典のほうがブッダの教えを正確に伝えている――これが長老の立場だ。
私はかつて「パーリ仏典と大乗仏典は歴史的にほぼ同時にできたという見方もある」と発言したことがある。この点は、歴史考証を厳密に進めると複雑な議論になる。
長老は「パーリ仏典がブッダの教えを伝えている」と断言する。その理由を問うと、「パーリ仏典は、ほとんどすべて苦・無常・無我の教えから逸脱していない。また、経典同士に矛盾がない」と答えた。
「では、大乗仏典はどうですか?」と尋ねると、「大乗仏典は一つの経典の中に多くの矛盾がある。ほんの一節を見ても矛盾が見つかるし、経典同士も矛盾している」と述べた。
さらに、こんな見解も示された。
「大乗仏典には『我』が強く現れているものが多い。たとえば法華経には、作った人やグループの『我』が強く反映されています。」
また、「我」についてこんな話もあった。
「コミュニケーションの成否は、『我』の有無やその強さで大きく変わります。我のないコミュニケーションはスムーズにいきますが、我が強いと上手くいかないんです。」