③【スマナサーラ長老とのエピソード】2025.6.1
長老の指導は、「いまここ」に気づく「ヴィパッサナー」と「慈悲の瞑想」である。
ヴィパッサナーは、非常にシンプルかつ深遠だ。あまりに
シンプルなため、実は難しい。一方、「慈悲の瞑想」は誰でも実践しやすい。
「慈悲の瞑想」は、「自分の願いが叶いますように」「悟りの光が現れますように」から始まり、親しい人、嫌いな人、そして生きとし生けるものへと広げていく。
実践すれば、確実に効果が現れる。ヴィパッサナーもそうだが、いつでもどこでもできる。寝たきりの重病人でも実践可能なのだ。
当初、「慈悲の瞑想」は長老が言葉で唱え、皆がそれを心で念じる形式だった。禅僧の村上光照師は、その言葉を「とてもわかりやすく、素晴らしい」と評し、コピーして有縁の人々に配っていた。
やがて、独特な節回しの歌に発展した。ただし、この節回しは日本人にはやや馴染みにくく、時に不協和音に感じられるため、私には少し違和感があるけれど。
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長老とのインタビューは難しい。「こういう場合はどうですか」と尋ねても、明確な答えが返ってこないことがある。
それは当然だ。その人が自身の課題を「実存的」に長老と向き合わなければ、長老からリアルな言葉を引き出すのは難しい。
例えば、「死にたい」という人がいると質問すると、「そんな人は死ねばいいんです。どうせ役に立たないのだから」と突き放したような答えになる。
しかし、実際に「死にたい」と悩む人が長老と向き合えば、長老は非常に丁寧に、課題を明らかにし、現実に立脚した解決法を教えてくれる。
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私の妻の場合、手術後の麻酔が切れ、痛みに耐えきれず「死にたい」と感じるほどだった。「痛みと死」について質問したとき、長老は「生存力」と「生存欲」について明確に答えてくれた。
「『痛い』というのは『生存力』がある証です。『痛い』というメッセージを通じて、身体の全細胞が修復に向かうのです。麻酔で感覚を抑えたままだと、身体は自分で治そうとしません。
『生存力』がなくなれば死に至ります。しかし、ここに問題があります。『生存力』がなくなっても『生存欲』は残るのです。だから、次の身体を求めて輪廻することになります。」
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長老は既成仏教界でも招待され、講演を行っていた。浄土真宗、曹洞宗、臨済宗の寺院などで講演し、どの寺院に対しても敬意を払っていた。日本仏教を批判することなく、ブッダの教えを伝えていた。
13年ほど前、袋井市にある禅宗の修行道場「可睡斎」(かすいさい)で偶然、長老の講演チラシを見つけ、話を聞いたことがある。
その講演は『スッタニパータ』の教えに基づき、「備えなければ憂いなし」というテーマだった。通常は「備えあれば憂いなし」と言われるが、ブッダの教えは「備えはいらない。むしろ備えようとすることで憂いが生じる」という内容だった。