【カルマが現れた時点で完了している】2025.5.19
金峯山寺で朝食をいただくとき、あかりがこんなことを言っていた。
「水と油が混じらないのはどうしてかわかる?」
「うーん、お互いに混じらないね。どうしてだろ。そもそもそういう性質だから?」
「それはね、お互いが反発し合うからなんだよ」と。
まあ、これを説明するには相当な基礎知識が必要だ。
おとうちゃんは、食器洗いに灰の汁を使っているが、その仕組みを説明するのはとても難しい。
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お寺で食事をしているので、ブッダの話にしてみた。
──ブッダはこう教えたんだよ。
川に油を入れたら、水に浮かぶよね。
みんなが必死に「油よ沈め、油よ沈め」と祈っても、儀式をしても、決して沈むことはない。
で、何を言いたいかというと、自分が過去に行ってきたカルマ(身口意の業)は決して消えないのだ、と。
「それってどういうこと?」と、あかり。
──たとえば、いまおとうちゃんは肺炎で苦しんでいるよね。それは、自分の責任なんだ。過去のカルマが現れているとも言える。
いくら他の人が祈ってくれても、どうしようもない。まあ、励みにはなるけどね。自分で過去のカルマを受け止めるしかない。自分が自分の課題として直面するしかないってことだよ。
「どうしようもないんだ……」
──わからない。でも、過去のことは消えないと思っているよ。問題は、過去がこの世のことだけなのか、無限の過去世のことなのか、それはわからない。ともあれ、過去の自分のカルマが今の瞬間瞬間に現れている。
「カルマが現れた瞬間に、その時点で完了している」と思うことにしている。おとうちゃんはそう思って生きているんだよ。まあ、ともかく、今この瞬間から心を浄めていけば、これ以上の悪業は積まないってことになる。
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過去世やカルマについて、「これが正しい」というものはない。わが身で納得するしかない。
参考までに仏典を挙げておく。
ブッダの教えの基本は「自業自得」。
「空中にも、海の底にも、山の洞窟にも、悪業(pāpakamma)から逃れられる場所はない。」(『ダンマパダ』127)
「業は行為者のものであり、逃れることはできない」(『サンユッタ・ニカーヤ』)
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大乗仏教になると、カルマは懺悔や智慧、慈悲によって軽減されたり消えるという思想も出てくる。あるいは「そもそも、そんなものはない」と言い切るお経もある(『般若心経』や密教など)。
「業の結果は避けられないが、智慧と慈悲によってその影響を軽減できる」(『維摩経』)
「安楽行を修行する者は、この経を受持し、読み、説き、諸々の罪を懺悔し、すべての悪業を滅する」(『法華経』安楽行品)
「もし『法華経』を受持し、読み、正しく憶念し、説かれた通りに修行すれば、その人は無量の罪障を滅し、速やかに菩提を証する」(『法華経』普賢菩薩勧発品)
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山寺の朝餉(あさげ)の箸(はし)の音静か。
水と油は混じわらず 反発するとわが子言う。
油は浮かぶ、川面に。
沈めしずめと祈りても、けっして沈むことはなし。
過去の業(ごう)は消えぬまま、今のわが苦となりにけり。