過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【身体感覚からの発信】2025.5.16

【身体感覚からの発信】2025.5.16

何かを主張しようとするとき、その根拠が問われる。
自分の身体感覚からであれば、根拠は自分自身にある。そこには、外部の権威や教義に縛られるものがない。自分にとって納得感のあるものとなる。
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ところが、仏教や宗教の教義をもとにすると、その教義の真偽論争や解釈、歴史考証の泥沼にはまり、煩わしいことになる。

だから、経典に基づくとか、仏典ではこうだとか、日蓮がこう言ったとかを根拠に何かを主張するのは避けたい。どれも深い教えではあるが、必ず複雑な議論に引きずられる。権威ある聖典を引用するのは構わないが、あくまで参考程度にとどめ、議論の中心に据えないほうがよい。

自分の実感からものを言うのがよい。
もちろん、実感だけに頼ると、主観に偏りすぎるおそれがある。仏教などの古典には、長年にわたり多くの人が実践し、洗練されてきた知恵が含まれている。だから、自分の実感を第一にしつつ、必要に応じて古典や他者の視点を参考にするのがよい。
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具体的に、仏典などを根拠にするとどうなるか。

たとえば、「瞬間瞬間が過去のカルマの完了である」という考え。私はこれを、病の身である今、切実に実感している。しかし、たとえば日蓮の『御義口伝』や仏教のアビダルマからこれを論じると、「その経典は偽書だ」「経典の成立が怪しい」といった論争に陥る可能性がある。

日蓮の教えでは、「因果倶時」や「本因本果」、「久遠元初」といった概念、あるいは「時」のありようを論じることになる。アビダルマのような初期仏教の分析的アプローチでは、カルマのプロセスを「刹那(瞬間)」や「心識の流れ」として細かく分解し、論理的に因果を追うため、非常に専門的な知識や解釈が必要になる。
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これを自分の実感や身体感覚で捉えるなら、「今この瞬間の感覚や出来事が、過去の何かとつながっているかもしれない」とシンプルに感じるだけで十分だ。そうすれば、教義の真偽や解釈の違いに振り回されず、自分の経験として納得しやすい。教義の枠組みを借りずに、意味を見出せる。

とくに、宗教的な聖典の引用は厄介だ。宗教的な聖典や教義が絡むと、途端に「その解釈は違う!」「いや、こっちの宗派ではこうだ!」といったややこしい議論が湧いてきて、純粋な思索が泥沼に引きずり込まれる。

これは、聖典が個人の実感を超えて、集団の信仰やイデオロギーの象徴になっているからだろう。
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文学だとこうした問題は起こりにくい。たとえば、『枕草子』、『徒然草』、『方丈記』、あるいは正岡子規の日記などなら、「へえ、こんな風に感じたんだ」と素直に楽しめる。

いま私は間質性肺炎という病気で動けなくなっている。だからこそ、芭蕉の俳句、「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」が切実に響く。このように引用すれば、何の問題もない。

これがナーガールジュナや空海最澄などの教えを引用すると、途端に話がややこしくなる。ナーガールジュナの「空」の概念、空海密教曼荼羅論、最澄の天台教学など、どれも一歩踏み込むと「その解釈は中観派として正しいのか?」「真言宗の教義ではこうだ!」といった専門家や熱心な信者の議論に巻き込まれ、純粋な実感が学問や宗派の争いに飲み込まれてしまう。

それは疲れるし、不毛だと感じる。
それでも、仏教や宗教の教義や理屈は個人的には大好きで、探求をやめるつもりはないけれど。
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《感実吟》

身感為拠自心安:身の感を拠(よ)り所とせば自ずから心安し
教義紛争霧裏看:教義の紛争は霧裏(むり)に看)るがごとし
枯野夢馳芭蕉句:枯野に夢馳(ゆめは)せる芭蕉の句
聖典引時波乱瀾:聖典を引くときは波乱瀾(らん)

自分の身体感覚を根拠にすれば自然と心は安らぐ
教義の争いは霧の中を眺めるようにぼんやりと見ておけばよい
枯野を夢が駆け巡る芭蕉の句(は胸に響く)
聖典を引用するとたちまち波乱が起こる

「解説」
押韻:安(an)・看(kan)・瀾(lan)で韻を踏みつつ、第二句の「霧裏」は「教義論争が明確に見えない」という両義性。病床の芭蕉と自らを、時空を超えて「枯野」のイメージで連結づける。