①【パーリ仏典と漢訳仏典】2025.4.6
パーリ仏典と漢訳仏典では、ブッダという人物(人間性)の捉え方や表現の仕方が異なってくる。
漢訳ではブッダが遠くに感じられるのに対し、パーリ仏典ではすぐそばにいるかのように感じられる。
パーリ仏典で描かれるブッダは「人間らしい」。身近にいて、話しかけやすく、親しみを感じさせる存在だ。一方、漢訳仏典では「偉大で近寄りがたく、神格化された存在」として描かれる傾向がある。
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弟子のアーナンダ(阿難)の視点から見てみよう。
師であるブッダを「世尊(Bhagavā)」と呼びつつも、ブッダの死を前にしたアーナンダは人間らしい弱さを見せる。その様子は、まるで家族のような親密さを感じさせる。そして、ブッダはその感情を優しく受け止める。
この時、アーナンダはまだ悟りに達しておらず、人間らしい感情的な動きを見せるが、それが逆に読者の共感を呼ぶ。
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漢訳仏典は、日本人にとって文体そのものが荘厳に感じられる。「白仏言」「泣涕悲恋」といった言葉は凝縮され、詩的かつ劇的だ。また、「世尊欲般涅槃」「不能自勝」などの語句が重厚さを加えている。
ブッダの言葉も「汝当依止於法」のように、はるか上の立場から発せられる格式高い命令調で、師としての威厳が強調されている。
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具体的に、同じ出来事がパーリ仏典と漢訳仏典の『長阿含経』でどのように表現されているかを比較してみた。
まず、パーリ仏典から見てみよう。
パーリ仏典の中で、ブッダが最期を迎える直前のやりとりを『スッタピタカ』の『マハーパリニッバーナ・スッタ』(Mahāparinibbāna Sutta、大般涅槃経、Dīgha Nikāya 第16経)から取り上げる。
舞台は「ブッダの死に際し、永遠の別れを迎えたアーナンダの涙と対話」という場面、いわばクライマックスだ。
ブッダがクシナーラ(Kushinagar)で入滅する前、アーナンダは終始ブッダの側に仕えていた。ブッダが死に近づいていることを悟ったアーナンダは、感情を抑えきれずに泣き出す。
パーリ語原文では、アーナンダがこう言う。
「世尊が入滅なさる、世尊が入滅なさる! 私には他に誰が頼りになるのでしょうか?」
(Bhagavā parinibbāyissati, Bhagavā parinibbāyissati! Ko pana me añño paṭisaraṇaṃ bhavissati?)
これに対し、ブッダはアーナンダを優しく諭す。
「アーナンダよ、泣くな、悲しむな。すべてのものは無常であり、生じたものは滅する。これまで私が説いた法(Dhamma)と律(Vinaya)が、お前たちの師となる。自己を拠り所とし、法を拠り所としなさい(Attadīpā viharatha, dhammadīpā)。」
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同じ出来事が漢訳の『長阿含経』ではどのように表現されているだろうか。
『長阿含経』(Dīrghāgama)は、パーリ語の『長部経典』(Dīgha Nikāya)に対応する漢訳仏典で、同じく「大般涅槃経」(『長阿含経』第2経、「遊行経」)にこの場面が含まれている(訳: 仏陀耶舎と竺仏念、5世紀)。
ブッダが入滅する前、アーナンダ(阿難)が悲しむ場面は次のように記されている。
「阿難白仏言:『世尊欲般涅槃,世尊欲般涅槃,我復何依?』泣涕悲恋,不能自勝。」
(阿難、仏に白して言く、「世尊、般涅槃せんと欲し、世尊、般涅槃せんと欲す。我、また何をか依と為さん」と。泣涕悲恋して、自ら勝つこと能わず。)
現代語訳すると、「世尊が涅槃に入られようとしています、世尊が涅槃に入られようとしています。私は何を頼りにすればよいのでしょうか?」と泣き悲しみ、恋い慕い、自らを抑えきれなかった。
それに対してブッダはこう答える。
「仏告阿難:『汝莫啼泣,亦莫憂悲。一切諸法,皆悉無常,有生有滅。汝当依止於法,依止於律,自作依止,以法為依止。』」
(仏、阿難に告げて曰く、「汝、泣き悲しむことなかれ。一切の諸法は皆ことごとく無常にして、生あり滅あり。汝は法に依止し、律に依止すべし。自ら依止を作し、法を以て依止と為すべし」と。)
現代語訳すると、「お前は泣くな、憂い悲しむな。一切の諸法はみな無常であり、生があれば滅がある。汝は法に依止し、律に依止し、自己を依止とし、法を依止としなさい。」
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パーリ仏典では、アーナンダの涙が自然に描写され、ブッダとの近さが際立つ。漢訳では「泣涕悲恋」「不能自勝」と硬い表現が使われ、やや距離感がある。
パーリ仏典のアーナンダの言葉「私に他に誰が頼りになるのでしょうか?」(Ko pana me añño paṭisaraṇaṃ bhavissati?)は率直で口語的だ。一方、漢訳の「我復何依?」は簡潔ながらもやや硬い印象を与える。
ブッダの応答も、パーリ語の「泣くな、悲しむな」(Mā rodatha, mā socatha)は直接的で温かいが、漢訳の「汝莫啼泣,亦莫憂悲」(汝啼泣することなかれ、また憂悲することなかれ)は距離感を感じさせる。
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パーリ仏典はインドの口承文化を反映し、師弟の対話が生き生きと伝わる。一方、漢訳は中国の経典文化の影響を受け、ブッダがより「聖者」として高められている。アーナンダの悲しみも儀式的な印象を受ける。
以下、漢詩と七五調にまとめてみた。
巴利仏典与漢訳仏典:巴利仏典と漢訳仏典
雖同記仏陀言行:同じく仏陀の言行を記すといえども
其趣大異:その趣き大いに異なる
巴利所載:巴利に載する所
仏陀如在目前:仏陀、目前に在すが如く
語笑温然:語笑温なり
漢訳所伝:漢訳の伝える所
世尊巍巍如山:世尊、巍巍として山の如く
威儀粛然:威儀粛然たり
阿難悲泣之状:阿難の悲泣の状
巴利如訴家常:巴利には家常を訴うるが如く
漢訳則「泣涕悲恋」:漢訳には則ち「泣涕悲恋」と
文相荘厳:文相荘厳なり
パーリの経典
読みて知るや
仏陀の声
すぐそばに
漢訳の経文
拝するとき
世尊の姿
雲の上
阿難尊者が
涙して問う
我が師よと
すがるごと
「法こそ灯」と
諭し給う
無常の理
永遠に
文相荘厳なり
仏典二相(しるし)
パーリに聞けば
師の笑みあり
漢文拝すれば
尊き光
同じく無常を
説きたまえど
伝うる形(なり)
変わりゆく