過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

〈19〉【私の宗教・神秘・霊能体験】日蓮宗での唱題行

〈19〉【私の宗教・神秘・霊能体験】日蓮宗での唱題行 2025.3.18

夕方、暗くなった本堂で夕のお勤めに参加した。
そこは千葉県大多喜町にある日蓮宗妙厳寺である。 
 
まず10分ほどの坐禅
日蓮宗なのに坐禅?」と不思議に思った。  

坐禅が終わると、正座して唱題が始まる。
ゆっくりと太鼓の響きに合わせて「南無妙法蓮華経」と唱え出す。
「なーむ みょー ほー れん げー きょう」
とてもゆっくりとした唱題だ。

太鼓とともに次第に速くなり、やがて驚くほど速くなる。ありったけの声で唱え続ける。
ピークに達すると、少しずつゆっくりと、とてもゆっくりと唱えていく。この間、10〜20分ほど。
やがてお題目の声が止む。  
再び10分ほどの坐禅に入る。
  ▽
この時、大きな驚きがあった。  
唱題前の坐禅と唱題後の坐禅に明らかな違いを感じたのだ。
唱題後では、雑念が消え、静まっているのがはっきりと分かった。

雑念がある時はそれに気づかないほど頭の中が忙しいが、雑念が消えて静寂になると「ああ、あの時は雑念がすごかったな」と分かる。  
唱題後では、スッキリ感や清明感が質的に異なる。

最初の坐禅では聞こえていなかった虫の声、風の音、木のそよぎ、本堂の軋む音が鮮明に聞こえてきた。

後で知ったのだが、これは湯川上人が教えた唱題法(坐禅〜唱題〜坐禅)だったそうだ。
これは40年前の体験である。  
  ▽
お寺で「たけのこ掘り体験」があると聞いて、泊まりがけで参加した時のことだ。
日蓮宗の寺での正式な勤行や唱題行は初めてだった。

最初、日蓮曼荼羅の前に安置された祖師像(日蓮像)が少し気味悪く感じたが、唱題を続けるうちに違和感は完全に消えた。  
唱題行はリズミカルで力強く、心身が充実する。

特に信徒が揃って唱える時、エネルギーの効果が顕著に現れる。
唱題行は集中瞑想であり、声を出す丹田呼吸法でもある。
身体を振動させ、次々と湧き上がる思考を鎮める。

思考はエネルギーの無駄な漏れでもある。それが静まることで、内側からエネルギーが湧き、心身全体を感じられるようになる。  
  ▽
朝のお勤めも爽快だった。
まず信徒が本堂に集まる。
正座していると、遠くから団扇太鼓とお題目の響きがかすかに聞こえ、長い廊下を通って次第に近づいてくる。
住職と尼さんが本堂に入り、鉦鼓(しょうこ)が「カン」と鳴り、お経が始まる。  
お経の前の「開経偈」の文句が素晴らしい。  
  ▽
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭いたてまつること難し。
我れ今見聞し受持することを得たり。願わくは如来の第一義を解せん。
至極の大乗、思議すべからず、見聞触知、皆菩提に近づく。
能詮は報身。所詮は法身。色相の文字は、即ち是れ応身なり。
無量の功徳、皆是の経に集まれり。
是故に自在に、冥に薫じ密に益す。
有智無智、罪を滅し善を生ず。若は信、若は謗、共に佛道を成ぜん。
三世の諸佛、甚深の妙典なり。生生世世、値遇し頂戴せん。  
(訳)
この上なく深い妙なる法華経は、計り知れない長い時を経ても出会うことが難しい。
しかし、私は今、釈迦が真実の心を明かされた法華経に出会い、その文字を見聞きし、受け持つことができた。
どうか、釈迦の説かれた最上の教えを信じ、習い極められるよう心から願う。
最高の大乗である法華経を小さな考えで理解しようとせず、見聞きし素直に触れることが、そのまま悟りに近づく道と信じて読む。
説かれる教えは永遠に輝き、一切を救い導く釈迦の報身であり、すべての命を仏にしようとする法身そのもの。
お経の文字一つ一つは釈迦の応身そのものだ。
無量の功徳はすべてこの経に集まり、自然に香りが染み込むように知らず知らずのうちに真の利益をもたらす。
智慧ある者も無い者も、罪を滅し善を生み、信じる者もそしる者も共に仏道を成し遂げる。
過去・現在・未来の諸仏が悟られた深い妙典であり、いつの世もこの法華経に出会い、信じ続けることを誓う。  
  ▽
「南無妙法蓮華経」も「南無阿弥陀仏」も、不動真言も、神道祝詞も、ヒンドゥーマントラも、唱えてみれば身体感覚に大きな違いはない。

「南無妙法蓮華経」はリズミカルで力強く、朝日が昇るようなエネルギーがある。それぞれに味わいがある。
声を出さず呼吸に意識を向けるヴィパッサナーや坐禅の数息観も素晴らしい。  

どれがいいというものではなく、好みや縁のあるものに集中するのがいいと思う。
その宗派の信仰者からは「とんでもない」と言われるかもしれないが、実践してみれば分かる。身体感覚に差はないのだ。  
  ▽
本尊も何だっていい。
阿弥陀如来像、六字名号、日蓮の真筆曼荼羅大石寺板曼荼羅などと大層に言う宗派もあるが、議論しても複雑になるだけだ。
太陽でも月でも山でも、あるいは何もなくてもいい。  
要は心が集中して実践できるかどうか。それが鍵だ。

これは自分で実験し、実践した身体感覚から言っている。
ただ、自分で尊く思い、集中しやすいマントラや響きは大切であろう。それは自分の縁に従って深めていけばいい。