【スマナサーラ長老との出会い】2025.1.4
①40年近く前 お母さんたちの学習会での出会い
②念とは気づきのこと いまここにいる(ある)こと
③死が〝わがごと〟になって、はじめてきちん実践しようとして実感する日々
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長老にお会いしたのが40年前。スリランカのお坊さん?小乗仏教?戒律? という固定観念があった。竹田倫子(後に上座仏教修道会設立)さんに誘われたので、出かけてみた。
そこは子育て中のお母さんたちばかり。赤ちゃんは抱かれてすやすや寝ている。ちっちゃな子どもは、長老のオレンジ色の袈裟をつかんで肩に乗る、頭に這い上がろうとさえする。
「〝念〟というのは、なにか強く思うとか拝むということではありません。それはパーリ語の〝サティー〟からきています。〝いまここの自分に気づく〟ということです。呼吸すると体が膨らんだり縮んだりするでしょう。まずは、そのことに気づくことですよ」
長老はそんな説法をされていた。
ううむ、なるほどそういうことか。はじめての上座仏教との出会いであった。
以来、長老の法話会、ヴィパッサナー実修会を企画したり、本作りの仕事をさせてもらってきた。
長老の鋭い言葉、まったく〝手ぶら〟で帰さない鋭い巧みな説法。たくさんの学びを得てきた。
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ところが、昨年の10月に「特発性間質性肺炎」と診断された。それは指定難病、身体障害者3級、要支援1、肺活量60%というレベル。この世界を去るカウントダウンも始まったような日々。
そんななか、あらためてヴィパッサナーの実践会に参加し、五戒を守ろうという暮らしにシフトした。
ちゃんとやってみたらどうなるか。実験だ。
以来、半年。確かに「事実」として実感できるもの。わが身に、この暮らしに違いが現れてきている。
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──ああ、40年近くも前にお会いしていながら、ちっとも学んでいなかった。せめて10年前から実践していたら、この人生、まったく質の違うものになっていたのに。
そう悔やまれることもある。が、死ぬ前にブッダの道を歩もうと気がついたのだから遅くはない。そう思うことにしている。
ありがたいことに、長老にインタビューして原稿を作らせていただく貴重な機会をいただいた。質問しそれを言葉として編集するというのは、もっとも学べる機会をもてるわけだ。まことに光栄なこと。
不治の病身。一つひとつの呼吸に気づかざるを得ない。いわば強制的にヴィパッサナーにならざるをえない日々。ブッダの道があること、それを示していただいたことに、感謝、感謝。