過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

スマナサーラものがたり【苗をそのまま持ってきて違う畑に植えても育たない】通し番号114

スマナサーラものがたり【苗をそのまま持ってきて違う畑に植えても育たない】通し番号114

※追加の原稿です。一番最初のインタビューの時。既成仏教や宗教について、辛口ですけど。
とにかく、まったく日本語を習ったこともなく日本に来たスリランカのお坊さんです。それが、大乗仏教しか知らない、儀式や法事しか仏教に縁がないような日本に来たんですね。
そして、いわば全くゼロからブッダの教えを伝えてきた、信仰ではなく宗教手はない道を示した、というところがすごいと思います。以下、スマナサーラ長老の話。
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どうして日本で仏教を教えることになったのかと。 日本での活動は簡単でしたか、どこが難しかっですか、とか。 印象に残ったこと、嫌な思い出など、どんなことがありましたか、とか。日本の活動について、いろいろと質問があればお答えします。

やはり後輩のためにも、まったく文化の違う社会で仏教を伝道する場合は、 どんな能力、どんなテクノロジーが必要かということは、伝えておきたいんです。
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東南アジアから海外に行くお坊さんたちは、自国の文化の仏教の苗をそのまま持ってきて違う畑に植えようとします。
でも、もともと畑が違うんだから、自国から持ってきた苗を植えても、なかなか成長しないんです。

たとえば、 タイのお坊さんがアメリカや日本に来たとしても、タイの仏教をそのまま持ってきて、日本やアメリカの畑に植えようとします。

アメリカにも、すごい巨大なタイのお寺がありますよ。ところが参拝するのは、ほとんとがタイの人たちです。アメリカ人はひとりも行かない。 アメリカにスリランカのお寺ありますが、やはりそこに行くのは アメリカに住んでるスリランカ人だけなんですね。 
人々が海外に移住するでしょう。その人たちに向けて、その人たちの国の文化のお寺を作っているわけです。
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私の場合は自国の苗をそのまま植えるようなことはしなかったんです。私はあえてひとりでいる。ひとりでやってきたんです。日本にいるスリランカ人を相手ではなくて、いきなり日本の人たちに説法していったんですね。

聞くほうからすると、私の話す内容は革命的なことだと思います。
ほとんどの方は「仏教って宗教でしょう」と思っています。ところが私は、仏教は宗教ではない、と言ってきました。他のものに依存しないで、自分自身をしっかりと生きていく道が仏教であると。だから、仏教は信仰じゃない、宗教じゃないんです。
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私はよく宗教というものを批判します。宗教は一種のビジネスなんですね。 儲かる世界です。いろいろな宗教が布教をします。それは、信徒を増やして教団として 収入を増やすためなんですね。 布教する人たちは善意で、それはビジネスとは思っていなくても、まさに宗教ビジネスの世界に組み込まれているんです。
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また、日本の仏教といものは、ほとんどが葬式仏教、あるいは観光仏教ですね。生き方としての仏教として伝わっていません。 あるいは学問仏教です。生活に役に立つ仏教ではないんですね。
既成の仏教以外にも、いろいろな新興宗教があり、なにものかを信仰して自分で祈って自分で体験を得ていく組織や教団もあります。

しかし、信仰や宗教というものは、依存性を高めていくだけで、真の問題解決にはつながりません。
ブッダの教えは、何ものも主人にしません。奴隷にはならないんです。
そのためには、「自己をならう」。さらにすすめていくと、究極的には「自己というものはありえない」。そのことがわかるようになる。これがブッダの教えのエッセンスです。