過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

なりゆき山あっけらかん寺 とするか

仏教はあかるい、あっけらかんとしている
①難しい仏教ではなくて、あっけらかん仏教を
②雨が降るなら降れ、風が吹くなら吹け
③一つ一つ、瞬間瞬間に完了していく生き方
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仏教はあかるい、あっけらかんとしている。そうみることができる。
いわゆる大乗仏教を学んでいると、空とか般若とか難しい哲学に入っていったり、仏教史とか学んでいると、学術的・思想的になっていったりする。あるいは、密教を学ぶと神秘的な方向にいったり。それはそれでおもしろいのだが。

ブッダの教えそのものは、どちららというと、あかるい、あっけらかんとしたものとみることもできるか。
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最古層の経典「スッタニパータ」にこうある。
師は答えた、「わたしは何人の傭い人でもない。みずから得たものによって全世界を歩む。他人に傭われる必要はない。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

いろいろ用意万端にして「備えあれば憂いなし」として生きているのではない。備えなんかない、何が起きるかわからない、それが人生。無常だ。なので雨が降れば降っていいし、風が吹けば吹いてもいいし。それはそれで、そういうことだという生き方が仏教ではないかと思っている。
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ブッダの教えを学んで実践に入ろうとしているが、その特徴は一つ一つ瞬間瞬間に完了していくところにある。あとにひかない。二の矢を受けない。
そういう意味ではあかるいと言える。あっけらかんとしているとも言える。
何かあったら、はいありました、おしまい。はい次おしまい。はい次おしまい。
そういう感じで物事が進んでいく。
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自分も間質性肺炎になって余命は少ないと感じているが、みんなネガティブだとか大丈夫だよとか言う。私は悲観的でも楽観的でもない。ただ、客観的にいま苦しんで衰弱してやがて死んでいくであろう肉体を観察しているというところ。
肉体は滅びていくものだし体は変化していく。それはそれでそういうものだと。

まあその意味では、あっけらかんとしていこうとしている。あっけらかんと、しかし、やるべきことは着々とやっていくわけで。仕事もいまたくさん抱えているしね。
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このわが家をもしお寺にするとしたら「なりゆき山あっけらかん寺」という名前にしようかと思っている。あっけらかんの〝らかん〟は、羅漢(阿羅漢、アルハット:悟り)につながるしね。