①特別な行はしない
②暮らし、生き方そのものの行
③瞬間瞬間、動作と感覚に気づきを入れる
はからずも間質性肺炎が発症して、体の自由が以前ほどは効かなくなっている。なにごともゆったり動作せざるを得ない。自然とヴィパッサナーの日々にしよう。そのようにギアシフトした。
ヴィパッサナー、それは気づきの瞑想法、まさにブッダの究極の瞑想法。そのように経典には書いてある。さて実際にやってみて、実践してみて、自分の身体の上で確かめようとしている。
心と体を結びつける、動作や感覚に意識を向けることをクセにしていく、つなぎ止めることが身についてくるようでありたい。
まずは呼吸に意識を向けるところから。胸に手を当てて、吸います・吐きますと意識する。掘りごたつから出る時に、手をつく、おしりを浮かす、足を曲げる、立つという行為をゆっくりゆっくりやりながら、気づきを入れるところから。
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修行というと座禅を組みマントラを唱え、滝行みたいなイメージがある。あるいは聖地とか霊地、パワースポットを訪ねるとか。すなわち日常生活とは離れた特別な行をいう。
あるいは朝晩お経を唱えたり、真言や祝詞を唱えるようなお勤め。
いずれも「特別なこと」だ。それが終われば日常の暮らしに戻ることになる。
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いま心がけているのは、暮らし、生き方そのもののなかでの実践。修行というよりも、身につける、習慣にする、癖にする。バーヴァナ(Bhavana:サンスクリット語)かなあ。身につける、自然とあらわれてくる、というような意味合いか。
じゃあ何をするのかというと、実に簡単なこと。それは、瞬間瞬間、自分の動作、感情などに気づいているということ。考えているのではない、気づいている。瞬間瞬間。簡単だがとっても難しい。
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立ち上がろうとする時に立ち上がろうとする気持ちに意識が向く。立ち上がろうという動作1つ1つに意識が向く。立ち上がる動作1つ1つの身体感覚に意識が向く。立つ時に立とうという気持ちに意識が向く。一つ一つ意識が行く。顔を洗う時に、台所に向かう時、右足左足と意識を向ける。止まることに意識を向ける。蛇口をひねる時に手が蛇口に近く、ひねることに意識を向ける。手で水をすくい手で顔を洗うことに意識を向ける。そのように日常の生活全てに意識を向ける。
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それがクセになっていくと、生活の質が変わってくるかもしれない。
何事においても気がついている。それが、ヴィパッサナーであり、いわばマインドフルネス。
まあしかし、なかなかそうはいかない。
だいたい、心と体はバラバラ。考えていることとやっていることは分離している。そこをつなぎとめる。考えることは、やめておさまっていく。むしろ、気づいている、感じていくという方向。
ムカッとしてしまうその瞬間に気づいている。ムカつきにスイッチオンされるとその勢いはとまらなくなってしまうが、スイッチオンした瞬間に気づく。そこでおしまいにすることができるかどうか。
まあこれは、重篤になって寝たきりでも、死ぬ瞬間まで、できる実践法でもある。ただいま実験中だ。
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心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。(ダンマパダ35)