過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

戒律に生きる⑤ 通し番号121

 

※「戒律」の問題はややこしい。日本の仏教はほとんど戒律は無視。あってないようなもの。酒は飲む、妻帯して家庭を営む。それらは日本だけの特殊な仏教といえる。

しかし、上座部仏教の国は戒律を守って暮らしている。戒律をきちんと守っているので在家の人は、私達の代わりに修行をしていてありがたいと感じて布施をする。そのことで功徳が積めるという文化がある。

しかし日本人が東南アジアで出家して、帰国してその戒律を守って暮らしていけるかというと難しい。

比丘の戒律を厳格に守っていたら、食事は自分でしてはいけない、お金を持ってはいけない。そうなると、暮らしていくのはたいへんだ。そのあたりをスマナサーラ長老に聞いてみた。
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私はこれまで、戒律を保ちつつ、日本で生活してきました。
それで個人的なことしか言えないんですよ。

自分で料理するというのは厳密には禁止。しかし、それでは常におつきの人がそばにいなくては戒律を守れません。

だから、生存に関わるものは戒律に引っかかって、命を危うい状態にはしません。その程度で戒律をちょっと柔軟にします。
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例えばお金を使う。これは戒律で禁止です。お金というのは、根本分裂の原因にもなった歴史もあります。

金があれば、なんでもできる。金というシンボルができると、なんでも交換ができるでしょう。金持ってる人に権利があるんですね。金があれば買えるものは何でも買えるんですね。

そこで、金があっても何に使うのかと言うところから考えます。
私は「生存すること」と「人を助けること」の二つに分けているんです。
だから金があったって、何の気持ちも何のこともないんです。それ以外、使わない。

私は戒律を完璧に守れるか、というと無理。お金を使ってますよ。今日も病院に行って電車賃も払うし、医療費と薬代を払ってきています。
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これまで、親戚の子供達のために何回もディズニーランドに行ったことがありますよ。自分で喜ぶために行ったことは一回もない。そこで子どもを楽しませる、遊ばせる。そのためにはお金は何の躊躇もなく使う。食べたいものを食べさせて遊びたいところにはいかせる。
観覧車とかは一緒に乗りませんが、ローラーコスターとか子どもが怯えているんだったら一緒に座ってあげたり、そういうサポートします。それで私はお金があってよかったと思う時なんですね。
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在家の布施で成り立っている東南アジアと日本は違います。日本人で出家して日本に帰ってきて厳格に戒律を保とうとすると、お付きの人がいないと電車に乗ることもできない。逆に人に迷惑をかけなくちゃ戒律を守れなくなってしまう。戒律を自分が守るために、人に迷惑をかけることになってしまう。

ミャンマーとかタイでは、在家の人が僧侶に布施をすることは、功徳が積めるのでありがたいと感じている。しかし、日本はそうは思わない。そうした日本で、戒律をまもると厳格に生きようとすると、かえってそれが「我」を張っていくことにもなります。
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そもそも出家するというのは、我を捨てためなんですからね。
ただ一つ言えるのは、誰にも戒律を変える権利はないんです。

戒律はお釈迦さまがが決めたものです。一つ犯したら謝りなさい。私が間違いでした、戒律を破りました。申し訳ありません、と。それ以外何もできません。
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戒律とは、道徳世界です。今そのような道徳システムが世界にはないんです。
だからもうすごい人格者を作る世界です。誰にも作れないんです。
多くきめ細かに伝えています。悟りを開いた阿羅漢に対してもあります。

また師匠に対する戒律がたくさんあります。師匠が弟子に対しての戒律、お坊さんを看病する人の決まり。看病を受けるときに守るべき決まりとかね、あるわあるわ。座るときの決まり。立つときの決まり。歩くときの決まり。

それを読んでしまうと一般人が、混乱してしまいます。
だから戒律は在家には教えるなよと言うふうになります。
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ポイントは、人間は完全じゃないんだということです。
誰だって間違いを起こす。覚悟をしなさいと。

だから月Ⅰ回、懺悔する集いがあるんです。毎月、満月の日などに集まって、互いに自己反省し、罪過を懺悔するんです。
私は戒律を破ってないからその集いには参加しない、というとそれは、戒律違反です。
そいういう行事があることは、素晴らしいじゃないですか。

人間は完全ではないと。そういう覚悟の上で生きる。
だからあなたに指さすことは私にはできないし、私に指差すことも不可能です。人はみんな不完全だからです。
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私たちは、朝晩謝りながら生活するんです。いろいろ失敗して大変申し訳ございませんと。
朝晩謝るんだったら、間違いをしなければいいんではないかということになるでしょう。でもそれは無理なんですね。

いくらがんばってもどこかで失敗しているんですよ。どっちみち私たちは、不完全なのだ、失敗はあるんだ。人間というのは完全に不完全であるという考えなのです。

失敗は認めない、完全にやらなくちゃいけないということになると、それは精神的な病気にもなってしまいます。
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完全な理想的な人間像をつくるんじゃなくて、だらしない人間はだらしない。それは認めなさいと。あなたにしっかり勉強しなさいという親も先生も、結局はだらしないんだと。このふたりともろくに勉強しなかったんだと。そんなに気にする必要はないんだというふうに子どもに向かって言うんですよ。

完全さや理想を目指すというのは、精神的な病気になりやすい。そもそも人間は不完全で、いつでも失敗するのだとと思ったら、いくらかは気をつける。それぐらいで、いいんじゃないかと思いますね。
そういうブッダの知恵で教えた道徳です。