過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

戒律に生きる③ 通し番号119

※「戒律」についての③です。戒律は、トレーニング。大きく言うと、古いOSを初期化して、新規OSのインストールみたいなものです。そりゃたいへんだ。

以下はスマナサーラ長老の話です。
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◉トレーニングして脳のプログラムを破る
いったい何のためにトレーニングするのでしょうか。
私たちの脳の中で、(自分を)破壊するようなプログラムができている、インストールされているのです。パソコンのOSみたいなものです。
そのOSというのは、「やってはいけないことは正しいと判断する」、「やるべきことは間違っていると判断する」のです。

このプログラミングは、役に立たないし、手間がかかって面倒くさい。でも、それがないと、パソコンが機能しないのです。私たちの頭の中に、そういうふうに役に立たないOSが入っていると思ってください。

「勉強しなさい」と言われたとたん、「あ〜、やりたくない」となるんです。「おもしろくない、サッカーならやりたいけど」と。これは、初めからそういうOSが入っているんです。「勉強なんてやるなよ。遊びだったらもっとやってしまえ」と、脳にはそういうふうなプログラムがあるんです。

食べ物でも、いまの社会では、食べたいと思うものはほとんど体に悪いものばかりでしょう。「ニンジンは嫌い。ピーマンは嫌い。ポテトチップスは大好き。肉は大好き。甘いものは大好き」となります。親が、子どもの体にいいものを食べさせるためには、かなり無理したり、ときには喧嘩しなくちゃいけないこともあります。

こうしたことは、いわば脳が、自分自身に対して「やってはいけないことをやりなさい。やるべきことはやってはいけない」とプログラミングされているからなのです。

だから、トレーニングして、そこを破るのです。いわば新しいOSに書き換えるようなものです。
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ありのままの世界を見るためのトレーニン
生命にあらかじめ組まれているプログラムを破っていく。
それがトレーニングの意味なんです。

「殺生するなかれ」と戒律にあります。脳のプログラムには、「なんでも潰したい」「破壊してしまいたい」という気持ちがあります。「イヤなもの、気にくわないものは抹殺したい。つぶしたい。」「楽しみのために殺してみたい」というような気持ちさえもあります。

ハエでも蚊でもゴキブリでも、叩き潰すときは、「やった!」と喜びを感じるものなんです。なんのトレーニングもしていないひとは、脳のプログラム通りに走ってしまうのです。それが、どんどんと暴走してしまうのです。
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そのプログラムの中身についてみてみましょう。
私たちは、目、耳、鼻、口、〈からだ〉が外界と触れるとき、そこに幻想が現れるようにプログラミングされているのです。「こういう信号が入ったら、こんなふうな音と思いなさい。こんな世界だと思いなさい」と。

「聞こえる」というのは、音が耳に触れたということですが、その瞬間に、脳の中で幻をつくるんです。「見える」ということは、目にデータが触れたわけですが、その瞬間に脳の中で世界をつくります。それはいわば自分が勝手につくった幻想なんです。見えるもの、聞こえる音は、実際のものではないんですね。本物、リアリティは見えない、聞こえないのです。

このプログラムによって、私たちは「やられたらやりかえせ」「自分を守るためには、嘘をつきなさい」「機嫌が悪くなったら人を侮辱しなさい、いじめなさい」と、突き動かされているのです。自分の欲望のためなら、人に危害を与えてもへっちゃらだ、というふうになっていくのです。

だから、ありのままの世界を見るためには、この間違ったプログラムを、トレーニングして直さないといけないんです。
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◉仏教は、スタートからゴールまでトレーニング一色
私たちは、そういうプログラムに支配されているのです。
だから、そのプログラム通りには動かない。じっと我慢することが、ものすごいトレーニングになるのです。勉強がイヤになっても、我慢して勉強する。先生が「なんで宿題を忘れたんだ」と叱っても、「すみません」と耐える。こうして、頑張って成長していくわけです。それがトレーニングなんですね。

仏教においては、このトレーニングこそがたいせつなのです。仏教というのは、スタートからゴールまで、もうトレーニング一色です。トレーニングを捨てたら、もう仏道はありえないんですね。
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レーニングというものは、けっして心地よいものではない。イヤなものだし、つらいものです。
宿題をするのも、塾へ行くのも、なにかイヤでしょう。稽古ごともきついです。ピアノを練習しなさいと言われたら、文句を言いながらも練習しなくちゃいけない。

レーニングというと、何か練習したくない気分が出てきます。やってはいけないことをやるように、やるべきことは絶対やるなよ、と。私たちの脳が、不幸になるようにできているからです。
そこはブッダがわかっていて、あえて「仏道はトレーニングである」とおっしゃっているわけです。