過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

戒律に生きる① 通し番号117

 

※ーわたしたちは「戒律」というと、なに縛られて窮屈な感じを持ちます。神とか仏とか偉大な存在との約束みたいで、それを破るとなにか悪い罰が来るようなイメージがあります。

また、自発的に戒律に生きている上座仏教のお坊さんなどを見ると、「この日本では戒律的な暮らしは無理なんじゃないか」と思ってしまいます。厳密に戒律を守ろうとすると、餓死してしまいますからね。だから欺瞞的にみてしまうところもあります。

日本のお坊さんはほとんど戒律は守りません。というか、戒律そのものがないくて形式だけというか。

私は、なんどか臨済宗曹洞宗のお坊さん研修講師としてよばれたことがあります。夕食の後、二次会や三次会もでました。わたしは断酒生活していたので烏龍茶だけ、日本のお坊さんは全員お酒を飲んでいました。

まあそれはそれで、楽しい集いではありました。日本仏教ならでの、独自なありようです。妻帯も当然ですしね。

ここではそうした日本仏教の批判ではなくて、ブッダの定めた戒律がいかに自分の暮らしに役に立っているかといころから見てていきます。
以下は、スマナサーラ長老にお聞きしました。
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日々の暮らしのなかで、できるだけ悪いことをしないほうがいい。
悪いことをすると、心が汚れていきます。悪いことを積み重ねてしまいます。さらに、自分だけじゃなくて、他の人も道連れにしてしまうことがあります。

しかし救いはあります。
人間に生まれたということは学ぶために生まれてきたわけです。いくら失敗しても、学ぶチャンスがあり、流れを変えることはできるんです。
そのためには、日々、心を育てていくんです。
その実践の指標として「五戒」があります。
五戒を守ることで、自分が「五戒」に守られるようになります。
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さて、悪いことをするとどうして自分が苦しむことになのでしょうか。それをみてみましょう。

ウソをついたり、殺生したり、他人に迷惑をかけたり、悲しみを与えることは、悪いことです。悪いことをすれば、まず自分自身が、悩み苦しむことになります。

「いいこと・悪いことは何か」。
それは、あえて説明しなくても、それは自分自身が「実感」としてわかることです。
いいことは、ほんの些細なことでもやってみれば、「これは気持がいい」「安らぎを感じる」と実感できます。

悪いことをする人は、その行為をする前から悩み苦しんでいるのです。
そして、悪いことをした瞬間に苦しみます。
その後でも、思い出しては苦しむことになります。
苦しみが苦しみを呼ぶのです。たとい悪事がバレなくても、自分自身の苦しみからは、決して逃れることはできません。

わたしたちは、いつでも、自分を評価して生きています。そして、常に自分に高得点を入れたいのです。
悪いことをすれば、自分による自己採点はとても低いものになります。そのことは、他ならぬ自分自身が「実感」としてわかるのです。
いいことをしている人は、とてもいい自己採点ができます。それも、他ならぬ自分自身が「実感」としてわかるのです。

なにごともうまくいっていて、自分も家族も幸せな人は、他人に危害を与えたり、迷惑をかけるようなことはしません。自分が明るくて充実しているときには、思わず微笑んでしまいます。挨拶することは、とても気持ちがいいし、なんの抵抗もありません。
心に喜びを感じながらいいことができ、いいことをすればするほど、まわりからいい反応が返ってきます。自己を採点すると、うまくやっているという満足がさらに増えます。だから、さらにいいことをしたくなります。
いい行為をする人は、いまに喜びがあり、これからも喜ぶのです。
悪い行為をすると、悩み苦しみが増えるいっぽうで、いま悩んでいて、これからも悩むことになります。

その報いは来ないだろうと思って、悪を軽んじてはいけない。水が一滴ずつしたたり落ちるならば、水瓶を満たす。愚かなものは、些細な悪を積み重ねるならばやがて悪を満たす。悪を積むならば、やがてわざわいに満たされる。(ダンマパダ121)
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例えば、強盗があったり誰かが人を殺しますと、大騒ぎになります。
しかし事件という結果だけを大騒ぎしても、意味がない。ニュースになるような犯罪というものは、日々の生き方に原因があるからです。

わたしたちは、「小さな悪いこと」を、いくらでもしています。毎日やっている小さな悪いことを放置しておくと、やがて大きな殺人や盗みという結果に結びつくかもしれません。小さなことをいい加減にしていると、大きな罪も平気で犯してしまうようになります。

だから、日々おこなっている小さな過ちこそ、充分に気をつけなければなりません。
「悪いこと」は、どんな小さなことでも、たとい一回であっても、決して行わないと心に決めるべきなのです。
どんな小さなことでも、それを行ってしまうことで、クセになって心が汚れていくからです。
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そこで仏教には「戒律」があります。戒律を守ることが、仏教者の基本です。(続く)

戒律というものは、悪から遠ざかって、よい習慣をつけるためのものです。心を清らかにすることを目的としています。

「盗むなかれ」という仏教の戒めは、糸一本でも、他人のものを盗ってはいけないのです。「嘘をつくなかれ」という場合も、「たとい遊ぶ気持ちでも、偽りを言ってはならない」と戒められています。

「これくらいなら、いいや」という心でいると、大きな悪でも、同じように「これくらいなら、いいや」という気持になってしまいます。
「百円くらいごまかしても、どうってことはないんだ」と思う人は、何千万円のごまかしもなんとも思わなくなります。
小さな嘘をつく人は、平気で嘘をつくようになってしまいます。
わたしたちは、「ウソをつくのは仕方がないときもある。ウソも方便だ」などと例外を作ります。しかし、悪いことは、決して例外を作ってはいけません。

人間というものは、ひとつ例外を作ると、どんどんと都合のいいように解釈していきます。「敵ならばいい。悪人ならばいい。自分のいのちを守るためには、他人を殺しても構わない」というように、どんどんとエスカレートしていきます。
例外を作ることで、すべてを台無しにしてしまうのです。