過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

慈悲の瞑想① 通し番号114

慈悲の瞑想①  通し番号114

通し番号86でも触れたが、慈悲の瞑想について追加する。
私自身、「ヴィパッサナー」と「慈悲の瞑想」は両輪と感じる。
ヴィパッサナーだけだと、ちとエゴイスティックになりやすい傾向性は感じる。しかし慈悲の瞑想を暮らしに取り入れると、確実にエネルギーが変わる。
慈悲の瞑想は、「メッタスッタ」というお経に由来するが、わたしはとくにお経は節をつけたりしては読まない。
わたしのやり方は、胸に両手を当てて吸う息・吐く息に意識を向けて、同時に慈悲の念を送る。
あるいは、おリンを響かせて慈悲の瞑想を行う。あちこちにおリンは置いてある。クルマの中にもおリンを積んでいて赤信号のたびに、ゴーンと鳴らして瞑想している。これ、なかなかいいのでおすすめ。
以下は、スマナサーラ長老の説法から。
  ▽
ブッダは自らが悟りを開いた時、この教えはみんなが理解できるとは思っていなかったんですね。全ての人が真理を理解して、悟りに達するとは思っていなかった。仏教の真理は、それほど難しいんです。
そこでブッダは、誰にもできる瞑想法を教えました。
それが、慈悲の瞑想です。
慈悲の瞑想は、自と他がないんだと発見する。感じる。すべての生命が一つの波長に動くと発見することなんです。
瞑想がすすむと、自分が消える。消えた時でも、自分の波長はある。でもそれは他の生命と一緒になっている。
一滴の水が海に入ったような感じです。
水は死んでいない、大海と一緒になっている。
それは、自我がないということでもあります。
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「慈悲の瞑想」は、〝生きとし生けるもの〟に対して行います。
まず、自分自身の迷い苦しみがなくなりますように。
悟りの光が現れますようにと念じます。
さらに自分から拡大していって、縁のある人に向けていきます。
自分の親しい人。自分が嫌な人。自分を嫌がっている人。
そして、人間だけではなく、生きとし生けるものに対して慈悲の念を送ります。
行うのは、いつでもどこでも
いい。通勤電車の中、食事の前、散歩中、寝る前など、どんなときにやってもいいのです。
「生きとし生けるもの」には、人間以外の動物、昆虫、植物、さらには暮らしている土地の精霊、神々も含まれます。神々にお願いするのではなくて、いつもありがとう、お疲れさんという感じでいいのです。
私は神にお願いなど全くしません。
でも、神のほうから勝手に手伝ってくれたりすることもあります。案内をしてくれるんです。何か歓迎したいという気持ちがあるようです。
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「イヤな人」に対して、慈悲の念をおくるのは心地よくないかもしれません。でも、「いやな人にも、自分をイヤだと思っている人も幸せでありますように」と日々、そのひとの尊厳を認めて、慈悲の念をおくってみてください。
イヤなひと、どうしようもないひとでも、みんな幸福になりたい、成功したい、明るく生きていきたい。まず、そのことに気づいて、しっかりと認めることです。
イヤなひとと出会ったとき、次のように確認します。
「このひとだって、明るく幸せに生きていたいんだ。みんなそれぞれが、しあわせに生きていたいと思って暮らしているんだ」と確認するのです。
満員電車に乗ったとき、窮屈でイヤになるかもしれません。隣の人がせわしなく動いて、落ちつかないとします。「なんだ、このひとは。いやだなあ」と思ってしまいます。怒りが出てくることもあるでしょう。
そんなとき、「でもやはり、こういうひとだって、自分の世界でしあわせになりたいんだ」。そう思ってみるのです。そのとき、「イヤなひと」という気持ちが、すこし消えるんです。
酔っ払ってまわりに迷惑をかけているひとがいます。迷惑なことは事実です。でも、考えてみれば、自分の自我だけが迷惑と思っているのかもしれません。酔っ払っているひとにしてみたら、気分がよくて幸せでいたいと思っている。そう思うと、「まあ仕方がない……」ということになるんですね。
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人だけじゃなくて、いろいろな生きものに対しても同様です。
台所にゴキブリが出てきたとします。「うわっゴキブリだ、気持ち悪い、イヤだ」と感じるでしょう。それは、自我のはたらきなんですね。
そんなときでも、「このゴキブリさんだって、幸せでいたいんだ」。そう思ってみるのです。
しかし、すべての生きとし生ける者の尊厳を認めるといっても、毒ヘビを可愛がるわけじゃない。どんなひととも親しくつきあわなくちゃいけない、というきまりはありません。イヤなひとをわざわざ呼んできて、パーティをやることもないのです。
ともあれ、慈悲の瞑想をこのように、実践してみてください。
事態がおどろくほど変わることを発見するでしょう。