※追加の原稿で足りなかった部分を補っていく。
ヴィパッサナー瞑想で、「歩く瞑想」のところが欠けていたので、補った。
「歩く瞑想」の場合は、早足のとき「右足」「左足」と意識する。ゆっくりのときは、足を「上げる・運ぶ・下ろす」と意識する。さらにゆっくりのときは「踵が上がる・運ぶ・踵がつく・つま先がつく」と微細に意識する。
これだけで、もうたいへんな集中になる。
坐る瞑想と立つ、歩く瞑想と組み合わせると、どんな狭いところでも瞑想は可能だ。また、森の中、川の畔でもできる。ウォーキングメディテーションだ。ときに、川の流れ、山の佇まいを感じてもいい。
瞑想の道場に行くと、「はい、立って」「はい、歩いて」などという指示はない。自分のペースで、坐る・立つ・歩くとやればいい。ただ初心者のコースは、丁寧に教えるので、一斉にやることになる。
以下はスマナサーラ長老の指導
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ヴィパッサナーの実践法は、何をしていても、どんなときでも、今の自分に気づいていくことです。
呼吸する、歩くこと、立つこと、座ることなど一つ一つの動きに気づいていくのです。
心を清らかにするには、いつでも「自分を観る」ことなのです。外から観るような感じで、自分自身を客観的に観るわけです。
ポイントは、からだの感覚を丁寧に味わうことです。吸う息・吐く息を、からだ全体で味わうのです。
これは、どんなときにも、どんなところでもできることです。
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たとえば、ただ歩くことでも、自分を観ることができます。
はじめての人には、歩く瞑想が入りやすいのです。歩く瞑想は、眠くならないし、早く落ち着くし、体と心の調和が速やかに実現できるやり方なのです。
歩行の際には、一歩一歩、右足、左足とよく確認して歩きます。
歩く感覚を感じながら、ゆっくりと足を運ぶ動きそのものを、別の自分が観ているように確認して歩くのです。
歩く際には、あたかも重病人や赤ん坊が体を動かすように、とてもゆっくりと左足、右足という動きを確認するのです。
足をあげると同時に、そこに心があるかどうかに気づいてみて下さい。上げるときには、上げることになりきる、運ぶときは運ぶことになりきって、下ろすときは下ろすことになりきって下さい。
とてもシンプルです。あまりにシンプル過ぎてつまらなくなって、頭はどこかへ逃げだしたくなるかもしれません。しかし、そこから逃げず、今ここに意識を保ち続けていれば、いつの間にか驚くほど、心が成長していきます。
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わたしたちは日常生活の中で、いろんな外部の情報をインプットして頭を酷使しているから、いろんな心配事、妄想、嫉妬や怒りの混乱状態が現れてきます。
体はあっち心はこっちとバラバラだったり、思い込みが強かったりして、「いま・ここの自分」という体験ができにくくなっています。
ですから、歩く瞑想もいいですし、日常の家事のなかでも、実践することができます。
皿を洗うときは、皿を「取る」「洗う」「ふく」「置く」というように、頭の中で言葉にしながら(実況中継しながら)、やってみて下さい。
掃除機をかけるときも「押す」「引く」と、それだけを確認して、掃除機をかけるのです。
それに徹したとき、頭の中には、なんの思考もありません。
家のことも、人間関係も、仕事のこともありません。ただ、掃除機を、押して引いているだけです。
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また、怒ったときには、「怒り、怒り」と、自分の心を客観的に観るのです。「ああいやだ。怒ってはいけない」などと考えません。普通の客観的な現象として怒っている心を、「怒り、怒り」と観るのです。
わたしたちは、いまできることしかできません。いまできることをやりながら、ただそれを確認すればいいのです。
こうして心を客観的に観ていくと、二、三週間くらい続けただけでも、感覚が鋭くなって、ものごとはうまく運んでいきます。人間関係もうまくいきます。
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なぜうまくいくのでしょうか。
それは、「主観的な立場」から、「客観的な立場」に変わるからです。
いま行っていることを確認しながら、自分を観ていくと、いくら仕事をしても疲れることはありません。そのとき心はリラックスして、悩みから解放されます。この方法で、苦しみが消えていくことが、実際に実感できるはずです。
常に心を客観的に観ていくと、パニックに陥ることもないし、喜んで舞い上がることもありません。心はきわめて落ち着いた状態になります。
それは、智慧があらわれている状態なのです。
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吸う、吐くという呼吸の動き、右足・左足という歩くことだけをとっても、それをひとつひとつ味わい、楽しむことができれば、それは人生は楽しむことに通じます。
これを修行だ、訓練だという思いで実践したら楽しくないし、気づきも生まれません。また、喜びに執着しないことが大切です。
この実践を続けていくと、やがて落ち着いた人格が培われていきます。
さらに実践すると、心は悪い順に見えてきます。自分のよいところは見えにくいものです。その見えてきた悪いものは、確実に消せるものだから見えてくるのです。
成長は自分では気がつかないものです。ちょうど植物の成長のようなものです。種から花が咲くまで、瞬間瞬間にはわかりませんが、確実に花は咲いていくのです。