過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

焚き火を囲んで会話 そして掘りごたつ

焚き火を囲んで会話。
お客さんが来ると、焚き火をして語り合うのが、わが家のスタイル。

開放的でいい。何より温まる。
薪が燃えて炎となりやがて炭になる。その過程を見ているだけで豊かになる。焼き芋なんか、とても美味しい。

その炭は、掘りごたつに入れておく。熱すぎるときには、灰をかけて埋み火とする。炭の炎は、灰に埋もれて見えないが、消えることなく半日以上は暖かさが続いていく。
  ▽
Oさんが、来てくれた。30代の頃、青年海外協力隊として、フィリピン、パングラデシュ、フィジー島で仕事をした体験を聞いた。マングローブの植林などを行ったという。

なるほどなあと感銘したのは、フィジーの「ケレケレ」と呼ばれる循環システムの話。

フィジー人は自分で所有するという感覚がない。どんなものでも共有する。モノや経験を多くの人とシェアすることが幸せという考え方があるという。お金持ちは貧しい人に食べ物や衣服などを与える。

もらった方は、卑屈になることもなく、みんながごくフツーにおんなじ着物を着て暮らしていたという。

経済で大切なのは、循環するということ。ボールが来たら次にパスを回していくこと。福岡伸一内田樹との対談を思い出した。以下、本文から抜粋する。
  ▽
人類が享受できている富の全体は増えているのに、人々が貧しくなっているのは、富が一部分に集中しているからですよね。人口の1%が富の40%を独占している。貯めこんで回さない。

仲間内でグルグル回すだけで。彼らのパスは自家用ジェットとか、ニースの別荘とか、外洋クルーザーとか、ほんとうに定型的なかたちでしか出されない。ぜんぜんファンタスティックじゃないでしょ。富全体は増えていても、循環しなくなってくると、経済システムの生命はだんだん衰弱してゆく。
 (中略)
ぼくが提案しているのは贈与経済の復権なんです。「交換から贈与へ」ということなんです。要するに、受け取ったものはどんどん次にパスしましょうよ、と。
 (中略)
どれだけ多くの人と固有名においてつながっているか、どれだけ多くの人を支援したり保護したりする責任を負っているか、どれだけ多くの自分を支援し、保護してくれるパートナーを持っているか、その人たちとの関係をどうやって円滑に維持できるか、そういう市民的成熟が問題なんです。
 (中略)
与えられたものを次に渡さなければならず、渡すときにできるだけ多様な形の、自由で、ファンタスティックで、予想を裏切るようなパスをしなくてはいけない。

ボールをもらったらワンタッチで次にパスしなければいけない。だから、パスをもらってから、そこで「次、どうしようかな」と考えてたら間に合わないのです。ふだんからずっと考えていなくちゃいけない。

いつもいつも「いまパスをもらったら、次にどうパスしようか」を考えている。

贈り物の受け手がどこにいて、どんなふうに自分を待っているか、自分がもらったら遅滞なく次に渡す相手にあざやかなパスを送ることだけを日々考えているような人こそが、贈与経済の担い手になりうる人だと思うのです。(「せいめいのはなし」から2012年 新潮社)