ベースコンセプト
スマナサーラものがたり(95)
※雑談的ですが、見切り発車の投稿をします。大乗の基礎である、唯識と中観の批判です。これもまた論じていくと、延々とキリがありません。
以下は、スマナサーラ長老の話です。
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初期大乗仏教では、中観と唯識という二つの柱があったでしょう。
単なる理念ばかり述べて、生きている人間には役に立たない。
龍樹は一応自分の欠点には気づいたんだけど、もう遅かった。
唯識は心が作るんだ。きれいか汚いか、自分の心が決めることだといいます。とてもややこしいことばっかり言って、結局、唯識そのものも自分は何を言ってるかわからなくなっちたんですね。
唯識の立てる阿頼耶識とは究極的な実体があるという。
空論(中観)とは相待理論です。なにも成り立たないという。空論から見ると唯識はおかしいという話になる。
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そもそも哲学というのは証明できない、立証できないコンセプトをまず作って、その上に論理を立てます。ベーシックコンセプトがまずあるわけです。
たとえば、全知全能の神がいるというベースコンセプトを作る。それから神が世界を作りました、と。
なんで人は死ぬのかと、神に逆らったからだとか。いろいろな理由をつけてしまうんです。
なぜ人間は不完全であるかと。神に逆らったから、原罪があるからと。それを解決するのは神の仕事であると。
だったら神が実子、ひとり子を人間界に送る。そのような話になります。
ベースコンセプトを正しいと認めてしまうと、全部正しいということになります。