過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

スマナサーラものがたり(93)浄土の教えと死後について

浄土の教えと死後について
スマナサーラものがたり(93)

※これも大乗仏教批判になりますけれど、真宗の方からすると、そんなものじゃない、もっと深遠な教えがあるということになると思います。なかなか難しいです。ともあれ見切り発車で投稿します。

浄土の教えは教えは優しい。なまんだぶ、なまんだぶと称えて極楽浄土に往けるといいます。真宗は念仏を称えることすらしませんね。「念仏を申し立つ心の起こる時、すなわち救われている」といいます。
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問題は浄土に往けなかったらどうするの? 
責任は誰が持つのか?ということです。

ブッダは死後の話を持ってくるなよ。いくら論じても、これは信頼できないんだよといいます。

死後の永遠不滅、天国があるという話に乗ってしまうと、確率は五分五分かもしれません。
浄土や天国というものが、あるかもしれない、ないかもしれない。もしもなかったら最悪でしょう。
だから五分五分のチャンスかけないほうがいい。
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また、死後があっても浄土があったとしても、もう生前の自分の記憶というものは、ないかもしれない。すると、浄土はあってもないとも言える。わからないことです。

我々はいまの五感の認識で、死後の輪廻というのは理解できません。
五感ができた認識は、この肉体を維持するためにある小さな能力なんですね。
肉体が壊れるたら、その知識も要らなくなるんです。
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誰だって年を取るときは、もう知識能力が減るでしょう。
それは自然の流れでいらないんです。必要ないから忘れるんです。

若い時は人の名前をみんな覚えていたとしても、歳をとるとまわりの人のことは知ってますけど、他は知らない。それで十分なんですよ。

認識って心の波ですからね。肉体が滅びると心の波長・波動は薄くなっていく、心の波長は何なのか気づかない。コンシャスネスがなくなってくるんです。