過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

スマナサーラものがたり(92)阿弥陀仏

※ちょっと大乗仏教を揶揄しているような話になります。浄土信仰の方にとっては、怒ったり反発するかもしれません。が、これもまた示唆に富んだ話なので見切り発車で投稿します。以下は、スマナサーラ長老の話です。
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大乗仏教では、阿弥陀如来がいますね。あの方はとても優しいんです。
法蔵菩薩といいう人が修行して阿弥陀如来になった。そしてすべての人を救いましょう。すべての衆生を救いきると請願しました。

しかし、いったいどこまで助けるんですかね。
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生命は無限にいるんです。始まりもなく終わりもなくずっといるわけです。
しかし、阿弥陀如来は、全てを救うと言います。
どれほどを救ったとしても、生命は限りなく出てくるでしょう。

たとえば、海に行って一滴の塩水から塩を取り出す。またちょっと取り出す。すべての海水から塩を取り出す。いったい、どこまでやるんですかね。海が尽きるまで、えんえんとやるんでしょうか。

それやめなさいよと。いい加減にしなさいということになりませんか。
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次の話は「ジャータカ物語」にあります。似たようなものは、アフリカの物語にもあります。

森にすごい風が吹いて、リスの巣が壊れて飛んで海に落ちてしまったんです。子どもたちも巣とともに海に落ちてしまいました。

リスのお母さんは、もう助け出そうと必死です。
海の水を全部、すくいとって子どもを救おうとするんです。
お母さんは海に走っていって、大きな尾っぽを海に入れては、外へ行って尾っぽを振っては水を出す。
また海に行ってまた水を出す。休むことなく必死でやるんです。
海を全部カラにして、子どもを救おうとします。

そこに帝釈天があらわれます。
「あなた何やってるんですか。海の水は、いくらがんばっても終わりにすることはできませんよ。やめたほうがいい」と言います。
「いや私はやめませんよ。何としてでも子どもを助けます。」
それで帝釈天はお母さんの愛とその行為を哀れに思ったのでしょう。「はいどうぞ、あなたの子どもたちです」と助けてくれるんです。これはジャータカ物語です。

アフリカのたとえ話では、森が火事になってしまいます。ちっちゃな鳥のお母さんは、自分の子どもを守るためにくちばしで水を運んで行って消そうとするんですね。なんども何度も、くちばしで水を運びます。えんえんとやります。

阿弥陀さんも同じことをやっているように思います。
「あのね、ちょっと別な手がないの?」と言いたくなります。
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この話のポイントは、「けっして諦めるなよ」ということです。
でも同時に、「頑張るのはいいんだけど、無駄なこと、アホなことはやってはいけないよ。ムダだよ」というこです。

別な方法、別な手ががあります。
ものごととには、いつでも別な手があるんですね。

一人ひとりが自分で悟りたいと頑張ればいいんです
そのように道を示せばいいのです。自分が全員を救うわけじゃなくて、悟る方法を伝えればいい。それがブッダの示した道です。
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私が言いたいのは、みんなにみんなを救うことはできるんだと。
そのために特別な組織にはいることもありません。
みんな人間でしょう。
お互いの面倒ぐらい、なぜ見られないかということです。
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動物たちを観察していると、けっこう失敗するでしょう。
母親は時々、飲み込めない魚を持ってきて、雛にあげたりしています。雛には食べられない。

そこはこの母親が可愛いんです。母親は狩りをしています、捕まった魚を取ってくる。小さいか大きいかは構わない。

取ってきた物は子どもに食べさせなければいけない。子どもが食べられなければ、まあそれは失敗だなと思います。まあ母親は、たくさん愛情があってみんなアホなことをやるもんだなと見ています。でも、失敗と同時に可愛いものです。
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人間は科学と経済発展というところで、大きな失敗をしました。
だからといってもう「見込みはない」ということにはなりません。
みんな、そもそも人間です。
だから、誰にでも、誰のことでも助けてあげることはできる。そこは慈悲の心なんですね。