※今回は雑談風です。これをきちんと整理するには、インド哲学、大乗の理論、量子力学、心と物質の関係など難しい領域です。きちんとそこを整理した上で投稿すべきなのですが、とても示唆に富んでいるので、ともあれ見切り発車で投稿します。あとで、ゆっくりとスマナサーラ長老と整理していきます。以下、長老のお話です。
▽
本覚思想というものが比叡山天台宗で起きていく。本覚思想とは「人間は本来、仏である。修行しなくてもいい」というような教えです。
「修行しなくても仏になれるのなら、どうして修行する必要があるのだ」と、道元は疑問に思います。
本来悟っているというならば、苦行するとか余計なことをする必要が。そのままいればいいでしょう。
ではどうして、貧乏人がいるんですか。身体障害者がいるんですか。どうして人と人の間に差があるんですか。どうして、苦しんでいる人もすごく幸せそうな人もいるんですか。
それの説明ができない。
道元の疑問に対して、だれもそれにきちんとこたえてくれなかったんです。そこで、本場の中国で学ぼうということで、道元は宋の国に渡ったのです。
そして「身心脱落」という境地を得ました。「脱落・脱落」はこれからの公案として、課題として持ち帰りました。
▽
ともあれ、大乗仏教では、すべてが一体であるという理屈があります。
たとえば、宇宙のおおもとビッグバンがあっとしましょう。それで宇宙はかぎりなく膨張して森羅万象が現れることになる。
すると、宇宙も全部、私たちももともと一体である。だから、もうみんな全部とっくに悟っているんだという考えなんです。
▽
如来蔵思想(タターガタ・ガルバ)も同様です。宇宙が始原においてバーンと爆発する。森羅万象が現れる。犬も猫も水も現れるんです。全部タターガタ(如来:始原の真理からくる)です。
そうなると、これはもうヒンドゥー教と全く変わりがありません。
▽
ヒンドゥー教というのは、多彩です。クリシュナ信仰があるし、シヴァ信仰があるし、カーリー信仰があるし。欲に離れて呼吸に意識を向ける行法あり、欲に溺れていくタントラもある。歌があって踊りがあって陶酔があって、なんでもヒンドゥー教の渦に巻き込まれていきます。
そして、ヒンドゥー教をちゃんと型として丸めたのは、大乗仏教といえます。
型として丸めて論理を組み立てます。
でもある論理を立てると、かならず反論がでてくるということです。
自分が言ったことで、自分が首を切られることになります。
放った矢は必ず自分のところに返ってくるのです。それはまた、別の機会に論じます。
▽
宇宙は限りなく現れては消えていく、現れては消えていく。それは観察すれば、事実ということが分かります。
物質宇宙と生命宇宙とをまとめなくては、真理は見えてきません。
科学者は物質宇宙のことしか考えていないのです。
心の宇宙のことは考えないのです。
心は存在しないと思っていた科学者たちが、量子力学を勉強したところで、「あれ?あるはずの物質がない」と発見したんですね。
素粒子は独立して仕事をしない。変身するんだと。
そこに、なにか力が割り込んでいるぞと。
一個の素粒子は二箇所で同時に現れるんだよと。これはおかしいとか。
それで、コンタングルメント(量子もつれ)とか、いうのです。
科学では、心の研究はまだまだこれからなんです。
▽
仏教は、心も物質も絡んでいるのです。
ブッダは最初から宇宙はナーマ(名前:nāma、名)とルーパ(rūpa、色)でできていると説明しています。
これは現れて消えて、現れて消えて、限りなく同じパターンで続くんです。
そこで生命の差別、幸不幸の差、苦しんでいる人、幸せな人、それは心のからみ具合で成り立つものだと、カルマ論によって、物事を見事に説明しているんです。