OSの初期化
スマナサーラものがたり(88)
ホモサピエンス史の中で、宗教というものは、大きな比重があります。
人間の歴史でキリスト教、イスラム教、仏教、儒教など、宗教が占める比重は、すごいおおきなものです。
信仰ファクターなくして、ホモサピエンス史は成り立たないんです。
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猿人とか原人(ネアンデルタール人)は強くてカッコよかったんです。でも、頭が悪かった。
だから、小柄なホモ・サピエンス(Homo sapiens、ラテン語で「賢い人間」)に殺されたんです。
ホモ・サピエンスというのは、体に合わない(バランス的に頭が重たすぎる)大きな脳みそがあるんです。そこで、人類は知識を蓄え、人と人を言葉で結び、知恵やテクニックを継承して、文明を創り、文化を創造してきました。
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しかし、そこに大きな問題がありました。
その脳は人間にとって、管理不可能だったのです。
たとえば、馬をつかいたいとします。
馬は力があるしその力で、畑や田んぼを耕すことができる。馬に乗れば遠方まで行くことができます。
問題は、馬を制御することです。
ほうっておいたら、馬はどこに走るのかわからない。
追っかけてつかまえることもできません。
そこで、轡(くつわ:手綱につなぐために馬の口に含ませる金具)をつけて管理しました。それで制御することができました。
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信仰とか宗教というものは、ホモ・サピエンスにとっては轡と手綱みたいなものです
それによって、コントロールしようとする。勝手に走らせないようにするわけです。
人間には、そういうものが、もともとインストールされているんです。
信仰したい、偉大な存在を崇めたい。儀式とかしきたりとか、教義によって自分たちは安心したい。いつもなにかに依存したがっているわけです。
いわば、奴隷として安心したい。つねに、マスターを探しているのです。
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「宗教」や「信仰」というものは、なにか偉大な存在(神さまや仏さま)を祭り上げて、自らすすんで支配されようとすることなんです。
私たちは不安を抱えているので、何か安心を得たい。
「それでいいんだよ」と言ってもらいたい。救われたい。
それで「宗教」や「信仰」を求めるわけですね。
私たちは、すすんで奴隷であり囚人であろうとするのです。
支配してくれる主人を求めて、奴隷になりたいのです。
そこでよりよい主人や支配者を探し求めています。
Aという主人より、という主人がもっといい、いやCという主人がいい。
このようにつねに「主人探し」をしてしまうんです。
たとい主人は替わっても、つねに「主人と奴隷という関係性」は替わりません。
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どこのだれが、どの教えが特別に偉いということもないんです。
わたしたち人間は、もともと完璧な奴隷制システムが刷り込まれているんですね
「自分が解放されて自由になったらいけない」と巧妙にかつ微細に刷り込まれています。
それは、人間という存在に、もともとインストールされたアルゴリズム(問題を解決したり目標を達成したりするための計算方法や処理方法)のようなものです。
それは、「絶対の法則」のようにはたらくんですね。あたかも遺伝子の中に入っているようなものなんです。
育ってきた環境、親の教育、文化、歴史、民族、日本人であることなど。さらに、人間であること。わたしたちは、あれやこれやとたくさんまとっています。逆らうことができないのです。
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人間はほんらいフリーで生きていけるんです。けれども、仕事しなきゃいけない。あれもしなくちゃいけない、これもしなくちゃいけないと追いまくられています。
どうしてこんなに苦労して仕事をしなくちゃいけないんでしょうか。
楽にしよう、うまく動くようにしようとするたびに、この社会は複雑化するばかりです。
いろいろシステムを作りますが、かえって問題は悪化するばかり。
だから、ちっとも賢くならないんですね。
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ほんとうのところ、主人など必要ないんです。
ブッダの教えは、そういう主人と奴隷のありようを根本的に初期化しようとするのです。
バージョンアップじゃ、ありません。初期化です。手綱を入れ替えることじゃないんです。新しいものに、すっかりきれいにしてしまうことなんです。
主人と奴隷の関係じゃないものってなんでしょう。
それは、いわば友愛です。
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馬の例えでいえば、馬に名前をつけて、太郎さん元気?
「太郎くんおいで」と言ったらやって来る。
太郎くんは、その人を乗せてあげる。
その場合は、馬も馬の背中に乗ってる人も被害者ではない。奴隷でもない。主人でもない。
馬は喜んで安心に安全に運んであげる。
馬のほうは、首を掴まっていられる者の能力に合わせて走る。
お互い仲良しになるんですよ。