※東海ダンマサークルの法話から。
こういう質問がありました。
「みんなでパーリ語で読経をするんですけど、私はパーリ語の一語一語のニュアンスが全然わかっていません。そのため、心があまり入っていかないんです。慈悲の瞑想などは日本語訳なので、意味がわかりますが、パーリ語のお経は意味がさっぱりわかりません。日本語訳であれば意味がわかって、そこに同意できるんですけど。そこで、パーリ語でお経をよむことについて教えてください」
たしかに、わたしたちはパーリ語は全くわからない。それよりも、きれいな日本語に訳されたものを読むほうがいいのかもしれない。
あるいは、パーリ語の深い意味が日本語では訳しにくいのかもしれない。
だからまずはパーリ語の響きを覚えて、少しずつ中身を理解していくのがいいのかもしれない。
以下は、スマナサーラ長老の答えである。
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パーリ語を日本語訳にしてしまうと、そこに〝訳す人〟が入りますね。たとえば、中村元先生が訳したとします。それは、その大先生の脳みそなんですね。もちろん大学者だから、いい加減に訳していませんよ。
でも日本語訳にしてしまうと、そこにブッダが見えてこないんです。
中村先生の訳を読むと、中村先生が出てきてしまうんです。
私たちは、そこは微妙に気になります。
私たちにはブッダのことはよく分からないのですが、ブッダの使われた言葉に近いのがパーリ語です。ですから、ありがたい気持ちでパーリ語で読経してみましょう。