過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

スマナサーラものがたり(84)自分という実感が、どうやって生じるのか

すべての問題は「私」というものにある
スマナサーラものがたり(84)

東海ダンマサークルに行った。長老が「皆さん、なにか聞きたいとことがありますか」というので真っ先に手を上げた。

──病気になりました。あんまり長く生きられない。ああ、自分の体が病んで死んでいく。そこでいよいよ「私の体が弱って消えていくプロジェクト」として、それを観察していこうとしています。

全ての物事は「私」というものがあると、うまくいかない。私が強いほどにうまくいかない。そのことは、暮らしで分かってきました。
しかし、自分が病気で死ぬことに対して、私というものを外して見用途思いつつ、難しいところです。そのことについて、お願いします。
  
以下は、それに対してのスマナサーラ長老のこたえです。

「私」というものがいかに現れていくのか、の探求に入っていきました。これ、無我論ですからとっても難しい。書きながら整理しているところです。
  ▽
池谷さんがいう通り、すべての問題は「私」というところにあるんですね。「私は」「私の」「私に」とか、この「私」という一つの単語は恐ろしい言葉なんです。
全ての苦しみのもとは、そこにあるんです。
  
例えば人が病気になる。「その人の余命は、あと数か月間でしょう」と言われても、自分自身のことではないので、全然平気でしょう。

ところが「私の親しい人」「私の子ども」となると事情は異なりますね。ましてや「私の身体」「私が」いうことになれば、まったく平気じゃなくなります。

そこで、「私って何だろう」「真の私を探してみよう」と客観的に科学的に真の私を探そうということになります。
探す場合、まず「私がいる」「私がある」という大前提があるんですね。

「私がいる、ある」という大前提のもとで、「私」をかならず見つけよう、かならず見つかるぞという方向です。
  ▽
もうひとつの立場は、「私がいるのかいないのか」「わたしというものが、あるのかないのか」それはわからない、ということです。
「私がいるのか、いないのか」──そこは、確かめてみましょう。

さがす場合でも、そういうふうに二つの立場に分かれるんですね。
「いいことをしましょう」という道徳的な価値観でも、この二つの立場(私がいる、私がいない)で、それぞれありようが違うってくるんですね。

ブッダが出した結論は、実際には「私」というものは、ないんだということです。
「私」というのは自分の脳みそ、自分の認識が勝手に作りあげたもの。捏造したものであるというのです。
  ▽
説明が難しいですね。なにしろいるはずの「私」がいないのですから。
そこをすこし、説明します。

まずはじめに我々には心があって、心が外界の物事を認識します。
見たり聞いたり嗅いだり味わったり触ったり。そういった認識システムがあります。外界を感受したとき「私が」が入ります。「わたしが見た」「わたしが触った」「私が考えた」と、自動的に思考が働きます。

お腹が痛くなったら、「私は痛い」といいます。
それは、文法的に厳密に言えば、私は痛いのではなくて、「足が痛い」「手が痛い」「お腹が痛い」「胸が痛い」と言うべきところです。

そこに「私」という言葉を入れてしまう。そこは幻覚なんですね。
体調が良くない。なぜ調子が悪いかと感じるかというと、過去の私の体調と比較しいるからなんです。今までそんな調子は悪くなかった。でもいま調子が悪い。過去の私と今の私とを比較しなかったら、いいとかわるいとか思わないんです。

あらわれているのは、いまここの「私」だけです。
その「私」とは、幻覚なんです。現れては消え、現れては消えるものです。
そうは言っても、認めたくない私がいるんですね。

思考というものは、止まることなく、無限に変化していきます。
一つ考えて、次にまた別のこと考えて、あちこちにさまよいます。過去にも行きます、未来にも行きます。ここにいないで、別のところにも行きます。
瞬間瞬間、動いています。一時として休むことはありません。止まることはありません。
  ▽
目をつむっていた状態から、目を開けて上を見るともう認識が変わる。下を見るとまた認識が変わる。触れたら認識が変わる。見えたもの、聞こえたもの、匂いを感じたもの、味わったもの、身体で感じたものによって、認識は変化していきます。瞬間瞬間にです。

その時に思考が起きます。その思考はものすごい高速で働きます。物質の変化よりかなり速い。光の速度よりも速いんです。

接触しては「私」が現れ、また別のものに接触しては「私」が現れと、「私」というものは、瞬間瞬間、生滅変化しているのです。

そこには、認識の流れだけがあって「私」という不動な実体はないのです。
だから、「私」というものは、いくらさがしても見つからなくない。
蝋燭の炎をみて、炎という実体を見つけようとするようなものです。炎は瞬間瞬間に変化しているのです。実体はないんですね。
  ▽
「私」というものが、すべての苦しみのおおもとなんです。「私」というものは、幻覚概念なんです。

幻覚概念というものを理解するために、「うさぎの角」とか「亀の毛」を思い描いてみてください。
「うさぎの角」と言うと、うさぎも角もわかっている。だからうさぎに角があるイメージでわきます。「亀の毛」といったら、イメージできそうですね。
でも、そういったものは実際はないんです。
私というのは、この「うさぎの角」や「亀の毛」のようなものなんです。

何かと何かが組み合わされて、私というものになる。
その「私」とは、捏造されたものなんです。
  ▽
そのことを理解するために、かんたんなプラクティス(実践)があります。

病気が私ですか?と問うてみます。──病気が私ではありませんね。私でないものは、放っておきましょう。
私のものでないならば放ってっておきましょう。そこはもう勝手にすればいいんです。

この年齢になってくると、身体は壊れていきます。若返りするということはありえない。
具体的にみてみましょう。

自分が実際感じる調子の悪さなどを見て、これが私ですかと。──私ではありませんね。
身体は私ですか?──身体は私ではありませんね。身体は身体の勝手です。
じゃあ考えることは私ですか。──私ではありませんね。考えるというのは、勝手に次々と浮かぶのです。考えをコントロールすることはできません。止めようとしても、止まりません。

何か見えたらさっと考えが生まれてくるんです。何か聞こえたらさっと考えが起きてくる。何か味わったら、さっと考えが起きてくる。

勝手に思考が生まれてきて妄想して回転してゆく。勝手に起きているんですね。
考えというものは、浮かんでは消え浮かんでは消える──そこに私はいないのです。
  ▽
身体というのは有機物質です。だから、壊れます。無機物質よりも変化のスピードが速いんです。
だから病気になったりする。いのちはやがてやがて壊れる。死ぬということは、生まれた瞬間で決まっています。

小さな子どもだったら元気で明るくて、すくすく成長してもらいたいと願う。しかし、大人になれば、やがては年とってゆく。子どもが成長するのも、大人が老化するのも同じことです。

年取ることを止めたらどうなるか。物体になってしまう。もう生きられません。
神様がやってきて、不老不死の状態にしたら、石みたいな物質にならなくちゃいけない。
石になれば不老不死です。しかし、それでも物質は宇宙のなかのものだから、やはり変化し続けているのです。
物質というのはたんなる現象ですからね。固定的な物質は存在しない。
宇宙は、止まるということはない。永遠の宇宙を説明しようとする人は、自分の主観と宗教的な観念を入れています。

ともあれ、宇宙は止まることはない。絶えず動いています。
太陽は止まっていない。太陽はもう恐ろしいスピードで動いている。地球も止まっていない。地球の中にあるものも止まっていない。
宇宙そのものは、何ひとつ止まっていない。変化しつづけています。
太陽がどんどん動いて動いて、もしブラックホールに近寄ったりしたら、太陽はもう終わりです。そういうことがなくても、いつか太陽は消滅します。
  ▽
言葉で私と言っても、0歳の時の私と、10歳の時の私と、20代の私と同じですかね。何かひとつ同じもの見つかりますかね。全く同じものはないでしょう。変化という流れがあるだけです。

私の前におリン(鈴)があります。これがおリンですと言う。誰かがそれを持って行って、時計を置いた。でもおリンですというとします。誰かがペットボトルを置いても、これはおリンですと言ったとします。

内容が変わっているのに、変化しているのに、自分がおリンだと決めてしまった、思いこんで動かないようなものです。

「私」というものも、みんなそうなんです。
瞬間瞬間、体の細胞は壊れていく。心は瞬間瞬間に変わっていく。
にもかかわらず、「私」というものがあると言っているんです。

  ▽
すべての問題は「私」というものにある
スマナサーラものがたり(84)

東海ダンマサークルに行った。長老が「皆さん、なにか聞きたいとことがありますか」というので真っ先に手を上げた。

──病気になりました。あんまり長く生きられない。ああ、自分の体が病んで死んでいく。そこでいよいよ「私の体が弱って消えていくプロジェクト」として、それを観察していこうとしています。

全ての物事は「私」というものがあると、うまくいかない。私が強いほどにうまくいかない。そのことは、暮らしで分かってきました。
しかし、自分が病気で死ぬことに対して、私というものを外して見用途思いつつ、難しいところです。そのことについて、お願いします。
  
以下は、それに対してのスマナサーラ長老のこたえです。

「私」というものがいかに現れていくのか、の探求に入っていきました。これ、無我論ですからとっても難しい。書きながら整理しているところです。
  ▽
池谷さんがいう通り、すべての問題は「私」というところにあるんですね。「私は」「私の」「私に」とか、この「私」という一つの単語は恐ろしい言葉なんです。
全ての苦しみのもとは、そこにあるんです。
  
例えば人が病気になる。「その人の余命は、あと数か月間でしょう」と言われても、自分自身のことではないので、全然平気でしょう。

ところが「私の親しい人」「私の子ども」となると事情は異なりますね。ましてや「私の身体」「私が」いうことになれば、まったく平気じゃなくなります。

そこで、「私って何だろう」「真の私を探してみよう」と客観的に科学的に真の私を探そうということになります。
探す場合、まず「私がいる」「私がある」という大前提があるんですね。

「私がいる、ある」という大前提のもとで、「私」をかならず見つけよう、かならず見つかるぞという方向です。
  ▽
もうひとつの立場は、「私がいるのかいないのか」「わたしというものが、あるのかないのか」それはわからない、ということです。
「私がいるのか、いないのか」──そこは、確かめてみましょう。

さがす場合でも、そういうふうに二つの立場に分かれるんですね。
「いいことをしましょう」という道徳的な価値観でも、この二つの立場(私がいる、私がいない)で、それぞれありようが違うってくるんですね。

ブッダが出した結論は、実際には「私」というものは、ないんだということです。
「私」というのは自分の脳みそ、自分の認識が勝手に作りあげたもの。捏造したものであるというのです。
  ▽
説明が難しいですね。なにしろいるはずの「私」がいないのですから。
そこをすこし、説明します。

まずはじめに我々には心があって、心が外界の物事を認識します。
見たり聞いたり嗅いだり味わったり触ったり。そういった認識システムがあります。外界を感受したとき「私が」が入ります。「わたしが見た」「わたしが触った」「私が考えた」と、自動的に思考が働きます。

お腹が痛くなったら、「私は痛い」といいます。
それは、文法的に厳密に言えば、私は痛いのではなくて、「足が痛い」「手が痛い」「お腹が痛い」「胸が痛い」と言うべきところです。

そこに「私」という言葉を入れてしまう。そこは幻覚なんですね。
体調が良くない。なぜ調子が悪いかと感じるかというと、過去の私の体調と比較しいるからなんです。今までそんな調子は悪くなかった。でもいま調子が悪い。過去の私と今の私とを比較しなかったら、いいとかわるいとか思わないんです。

あらわれているのは、いまここの「私」だけです。
その「私」とは、幻覚なんです。現れては消え、現れては消えるものです。
そうは言っても、認めたくない私がいるんですね。

思考というものは、止まることなく、無限に変化していきます。
一つ考えて、次にまた別のこと考えて、あちこちにさまよいます。過去にも行きます、未来にも行きます。ここにいないで、別のところにも行きます。
瞬間瞬間、動いています。一時として休むことはありません。止まることはありません。
  ▽
目をつむっていた状態から、目を開けて上を見るともう認識が変わる。下を見るとまた認識が変わる。触れたら認識が変わる。見えたもの、聞こえたもの、匂いを感じたもの、味わったもの、身体で感じたものによって、認識は変化していきます。瞬間瞬間にです。

その時に思考が起きます。その思考はものすごい高速で働きます。物質の変化よりかなり速い。光の速度よりも速いんです。

接触しては「私」が現れ、また別のものに接触しては「私」が現れと、「私」というものは、瞬間瞬間、生滅変化しているのです。

そこには、認識の流れだけがあって「私」という不動な実体はないのです。
だから、「私」というものは、いくらさがしても見つからなくない。
蝋燭の炎をみて、炎という実体を見つけようとするようなものです。炎は瞬間瞬間に変化しているのです。実体はないんですね。
  ▽
「私」というものが、すべての苦しみのおおもとなんです。「私」というものは、幻覚概念なんです。

幻覚概念というものを理解するために、「うさぎの角」とか「亀の毛」を思い描いてみてください。
「うさぎの角」と言うと、うさぎも角もわかっている。だからうさぎに角があるイメージでわきます。「亀の毛」といったら、イメージできそうですね。
でも、そういったものは実際はないんです。
私というのは、この「うさぎの角」や「亀の毛」のようなものなんです。

何かと何かが組み合わされて、私というものになる。
その「私」とは、捏造されたものなんです。
  ▽
そのことを理解するために、かんたんなプラクティス(実践)があります。

病気が私ですか?と問うてみます。──病気が私ではありませんね。私でないものは、放っておきましょう。
私のものでないならば放ってっておきましょう。そこはもう勝手にすればいいんです。

この年齢になってくると、身体は壊れていきます。若返りするということはありえない。
具体的にみてみましょう。

自分が実際感じる調子の悪さなどを見て、これが私ですかと。──私ではありませんね。
身体は私ですか?──身体は私ではありませんね。身体は身体の勝手です。
じゃあ考えることは私ですか。──私ではありませんね。考えるというのは、勝手に次々と浮かぶのです。考えをコントロールすることはできません。止めようとしても、止まりません。

何か見えたらさっと考えが生まれてくるんです。何か聞こえたらさっと考えが起きてくる。何か味わったら、さっと考えが起きてくる。

勝手に思考が生まれてきて妄想して回転してゆく。勝手に起きているんですね。
考えというものは、浮かんでは消え浮かんでは消える──そこに私はいないのです。
  ▽
身体というのは有機物質です。だから、壊れます。無機物質よりも変化のスピードが速いんです。
だから病気になったりする。いのちはやがてやがて壊れる。死ぬということは、生まれた瞬間で決まっています。

小さな子どもだったら元気で明るくて、すくすく成長してもらいたいと願う。しかし、大人になれば、やがては年とってゆく。子どもが成長するのも、大人が老化するのも同じことです。

年取ることを止めたらどうなるか。物体になってしまう。もう生きられません。
神様がやってきて、不老不死の状態にしたら、石みたいな物質にならなくちゃいけない。
石になれば不老不死です。しかし、それでも物質は宇宙のなかのものだから、やはり変化し続けているのです。
物質というのはたんなる現象ですからね。固定的な物質は存在しない。
宇宙は、止まるということはない。永遠の宇宙を説明しようとする人は、自分の主観と宗教的な観念を入れています。

ともあれ、宇宙は止まることはない。絶えず動いています。
太陽は止まっていない。太陽はもう恐ろしいスピードで動いている。地球も止まっていない。地球の中にあるものも止まっていない。
宇宙そのものは、何ひとつ止まっていない。変化しつづけています。
太陽がどんどん動いて動いて、もしブラックホールに近寄ったりしたら、太陽はもう終わりです。そういうことがなくても、いつか太陽は消滅します。
  ▽
言葉で私と言っても、0歳の時の私と、10歳の時の私と、20代の私と同じですかね。何かひとつ同じもの見つかりますかね。全く同じものはないでしょう。変化という流れがあるだけです。

私の前におリン(鈴)があります。これがおリンですと言う。誰かがそれを持って行って、時計を置いた。でもおリンですというとします。誰かがペットボトルを置いても、これはおリンですと言ったとします。

内容が変わっているのに、変化しているのに、自分がおリンだと決めてしまった、思いこんで動かないようなものです。

「私」というものも、みんなそうなんです。
瞬間瞬間、体の細胞は壊れていく。心は瞬間瞬間に変わっていく。
にもかかわらず、「私」というものがあると言っているんです。
  ▽
バチで太鼓の皮を打てば音が出る。音は、空気の振動です。
我々にとっては音が大事なんです。
太鼓を習う人々にとっては、音は実体があるものですね。

音の響きに応じていろんな動きを決めたり、叩き方やリズムを決めたりします。
こんなフォームのほうがよく響く、こんな音を作りましょう。今度はバチを変えてみましょう。
いくつかの太鼓を叩くリズムパターンを決める。
空気の振動をどう管理するのかということです。

音の響きは空気の振動です。私たちは音の響きを聞きます。
見えたというのは、光の反射です。そこで、聞いた、見たというふうに、「私」というものが現れてくるわけです。「私」という錯覚が生まれてくるわけです。
  ▽
色声香味触法という六境に対して、眼耳鼻舌身意という六根が生じます。
触れた、聞いた、見たという感じが生まれて、そこに自我が生じる。

聞いた、私が見たというところに、常なる私は存在しないのです。聞いた、見たという時にあらわれては消え、現れては消えるものなのです。

自分という実感が、どうやって生じるのか──そこを精密にチェックしてみてください。