ただ起きることに対して、流れを観察しているだけ
スマナサーラものがたり(83)
※昨日は、愛知県の刈谷市でスマナサーラ長老の瞑想会があり、そこに参加した。渾身の瞑想指導に深く感銘したのだった。
前半は質問会があり、自分(池谷)の病気のこと、もはや肺活量が60%になって障害者3級に病んで、やがて死んでいくという観察についてお聞きした。
今まで長老のお話はもう30年以上も聞いていたが、「わがごと」として聞いていなかった。こうして病を得て、はじめて「わがごと」として長老のお話を聞かせていただいたのだった。
長老も体が良いわけではない。かつての長老は、実にかっこよくさっさと歩いて整然とした美しい動きをしていた。長老も私も老いて、身体は壊れつつある。そんなやりとりの一部である。
スマナサーラ長老のこたえ。前半の部分。
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私も心臓が悪くてこの先があまりないんです。今日も胸に激痛が起きて、歩けなくなって倒れそうでした。
そこをただ心で抑えて、ゆっくりゆっくり歩いてきたんです。すごく苦しかったんですけど、やっとここまでたどりつきました。
昔はサッサッと歩いたのになあ。昔は誰よりも速く歩けたのになあと思うんですね。
若くて元気だった頃と今の私を比較すると、なんてみじめなんだろうという苦しみが生まれてきます。
この体の臓器のシステムは、ひとたび壊れてしまうと、もう手当てはできません。起きてくる状況を緻密に観察することしかないんですよ。
みんな妄想して悩みます。
まだ死にたくないとか、責任があるんだとか、やりたいことはまだまだあるんだとかいいます。そうやって、自分の苦しみを増やしていくんですね。
いくらやりたいことがあるといっても、死んだらそれで終わりですからね。やりたいことはもはやできない、成り立たない。
やらなくてはいけないことがある。例えば、子どもがいる。この子をちゃんと育てなくてはいけない。それは私の義務だ。これは私の大切な仕事だ。でも、死んじゃったらどうしますか? この義務は果たせないでしょう。
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やるべきことを果たせなかったからと言っても、どうってことはないんです。
やったからって言っても、それもどうってこともないんです。
落ち着いた心で死にたいとか、明るい心で逝きたいとか、そんな期待もいらないんですよ。
死ぬのは自然の流れですからね
「どうなるのかわからない」
そんな気持ちでいればいいんです。
心にはあれこれと色々な思いが入ったり消えたりします。プログラムが現れたり消えたりします。
もし今日一日しか体が持たないなら、今日のうちにあれこれやったほうがいいと思ったりする。でも、やってもやらなくても同じことなんです。
みんなで「休んだほうがいい」とかいいます。でも、この体って休めないんです。調子悪いんだから。調子悪いんだから休んでも調子悪いでしょう。
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高い空に稲妻が現れる、光があらわれる、それはただ見るだけ。どうすることもできない。海の波を見ている。その時、何ができますか。なにもできません。
自分ではどうしようもないものに対して、自分というものを入れてゆくと、疲れるのです。心が汚れるのです。。
高い波だ、泡が出ている、かっこいい波だ。もうちょっと高い波があったらいいのに、次は波より高い波が来るといい、もっと派手な波が現れるといい。
期待してじーっと待っている。大きな波来たらよかったと喜ぶ。来なかったら失望する。
私というものには何もできないんです。
ただ起きることに対して、流れを観察しているだけのことなんです。
ただ空を見ている、ただ海を見ている。
感覚というものは勝手に回転しています。
苦しみが生まれるのは、自分自身への愛着があるからなんですね。
しかし愛着があったとしても、雲を愛するような感じでいいんです。
ああ綺麗な雲ですね、流れていきますね、後ろから太陽が輝いていますねと。流れだけを観察するだけなのです。
起きてくる現象と私とは関係ない。そこをしっかり観察できる人は、自分の体と心の流れを観るんです。(続く)