イスラエルの歴史学者であり、ヘブライ大学歴史学部の終身雇用教授のユヴァル・ノア・ハラリは『ユダヤ教』の成立について、こう書いている。(『ホモデウス』テクノロジーとサビエンスの未来──より)
「ローマ人によって神殿が焼け落ち、聖職者たちの一族は存在理由を失なう。神殿と聖職者と残虐な戦士たちのユダヤ教は姿を消す。やがて文書を書いたり解釈したりする学者たちが、存在感を増していく。やがて、彼らが編纂した文書が「聖書」と名づけられた。」
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古代のユダヤ人がまったく加筆も削除もせず、細心の注意を払って聖書の文章を伝承してきたという考えに関しては、学者たちの指摘によれば、聖書時代のユダヤ教は、聖典に依拠する宗教ではまったくなかったという。
むしろそれは、鉄器時代の典型的なカルトで、中東の隣人たちのカルトの多くとよく似ていた。
このカルトにはシナゴーグやイェシバ:訳注 ユダヤ教の教育機関もなければ、ラビもいなかったし、聖典さえなかった。その代わり、神殿での手の込んだ儀式があり、その大半は、嫉妬深い天空の神に動物生贄として捧げ、季節の雨と戦いでの勝利を民に授けてもらうためのものだった。
この宗教のエリート層は聖職者とその家族で、その地位は生まれによってのみ決まり、知的能力とは無関係だった。聖職者たちのほとんどは読み書きができず、神殿での儀式に追われ、どのみち聖典を書いたり学んだりする時間などろくになかった。
第二神殿:訳註 紀元前五一六年から西暦七〇年までエルサレムに建っていた神殿の時代には、彼らと競合する宗教的なエリート層が徐々に形成されてきた。
ペルシアとギリシアの影響もあって、文書を書いたり解釈したりするユダヤ教の学者たちが、しだいに存在感を増していった。これらの学者は、やがて「ラビ」として知られるようになり、彼らが編纂した文書が「聖書」と名づけられた。
ラビの権威は生まれではなく個々の知的能力にかかっていた。読み書きのできるこの新しいエリート層と昔ながらの聖職者たちの一族との衝突は避けられなかった。
ラビたちにとっては幸いなことに、ローマ人が七〇年にユダヤ人の大反乱鎮圧しているときに神殿もろともエルサレムを焼き払った。神殿が焼け落ちたため、聖職者たちの一族は宗教的権威と経済力の基盤と存在理由そのものを失った。伝統的なユダヤ教、すなわち、神殿と聖職者と残虐な戦士たちのユダヤ教は姿を消した。
それに代わって、書物とラビと細かいことにうるさい学者たちの新しいユダヤ教が現れた。学者たちの主な強みは解釈だった。彼らはこの能力を使い、神殿が破壊されるのをどうして全能の神が許したかを説明したばかりでなく、聖書時代の物語に記述されている古いユダヤ教と、彼らが生み出したまったく異なるユダヤ教との間の大きな溝を埋めた。(『ホモデウス』テクノロジーとサビエンスの未来──河出書房新社より)