多様性ということがたいせつだし、おもしろい。
私がよくインドを旅をして魅力を感じたのはそこだ。
日本の古神道なども、いろいろな神様がいて、多様性がある。
ヒンドゥーの神などは、とても多様だ。神々はエネルギーのいろいろな表れを形にしているようだ。身につけたいリソース(資源:知恵、弁舌、力、強さ、ワザ)のモデルとしてあらわれているとも言えるか。
インドの人々は、神に対してな深い熱烈な信仰をしている。そのエネルギーの濃密さたるや、日本の比ではない。
それでいて、他宗教に対しては不寛容ではない。
その点、一神教であるユダヤ教などは、かなり排他的に見える。だが、イスラエルの歴史学者であり、ヘブライ大学歴史学部の終身雇用教授のユヴァル・ノア・ハラリはこう書いている。
「個性豊かな役者たちが数限りなく登場する壮大な京劇のように、この世界を描き出していた。ゾウとオークの木、ワニと川、山とカエル、魔物と妖精、天使と悪魔などが、この森羅万象のオペラでそれぞれ役割を担っていた。」(『ホモデウス』テクノロジーとサビエンスの未来より。)
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今日の人々は、古代エルサレムの神殿というと、純白のロープをまとった祭司が敬虔な巡礼者を迎える大きなシナゴーグ ( 礼拝堂)の類を思い浮かべるだろう。 聖歌隊が美しい旋律で神を称える歌を歌い、香が焚かれて芳香があたりに漂っている。
だが現実には、食肉処理場とバーベキュー店を併せたものに近い様相を呈していて巡礼者は手ぶらではやって来なかった。
彼らは次から次へとヒツジやヤギ、ニワトリ、その他の動物を連れてきて、それが神の祭壇で生贄にされ、その後、調理され、人々に振る舞われた。聖歌隊の歌声は、子牛や子ヤギなどの鳴き声に掻き消されて、ほとんど聞こえなかっただろう。
血の染みついた服をまとった祭司は、生贄たちの喉を掻き切り、ほとばしる血を壺に集め、祭壇に流しかける。香の芳香は固まった血やあぶり焼きにされる肉の匂いと混じり合い、黒いハエが群れを成して至る所をブンブン飛び回る(たとえば、「民数記」 第28章、「申命記」 第12章、「サムエル記上」 第2章を参照のこと)。
自宅の前庭でバーベキューをして祭日を祝う現代のユダヤ人一家は、シナゴーグで聖書の言葉を学ぶことに時間を費やす正統派の家族よりも、聖書時代の気風によほど近い。
旧約聖書時代のユダヤ教のような有神論の宗教は、新しい宇宙論に即した神話を通して農耕経済を正当化した。
それ以前、アニミズムの宗教は個性豊かな役者たちが数限りなく登場する壮大な京劇のように、この世界を描き出していた。ゾウとオークの木、ワニと川、山とカエル、魔物と妖精、天使と悪魔などが、この森羅万象のオペラでそれぞれ役割を担っていた。
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宗教の多様性のある都市は、ダイナミックでおもしろい。
空海が留学した唐の長安など、道教、仏教、民間信仰、景教(キリスト教)、祆教(けんきょう:ゾロアスター教)の施設があったようだ。
ところが、中世のキリスト教の世界、あるいは現在のイランやイラクのようなイスラム教の国は、唯一の神、そして教義しか認めないので、息苦しいと感じる。
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ハラリ氏の同著を引用する。
一六〇〇年頃にカイロやイスタンブールに旅したら、そこは多文化で寛容な大都市で、スンニ派のイスラム教徒やシーア派のイスラム教徒、東方正教会のキリスト教徒、カトリック教徒、アルメニア教会のキリスト教徒、コプト教徒、ユダヤ教徒、さらには少数のヒンドゥー教徒までもが隣り合って比較的仲良く暮らしていたはずだ。
彼らもそれなりに意見が対立したり暴動を起こしたりはしたものの、そして、オスマン帝国が宗教を理由に人々を日常的に差別してはいたものの、そこはヨーロッパと比べれば偏見のない楽園だった。
を渡って当時のパリやロンドンに行けば、そこには宗教的な過激主義が満ちあふれ、支配的な宗派に属している人しか住めなかった。
ロンドンではカトリック教徒が殺され、パリではプロテスタントが殺され、ユダヤ教徒はとうの昔に追い出されており、正気の人ならイスラム教徒を迎え入れることなど夢にも思わなかった。それにもかかわらず、科学革命はカイロとイスタンブールではなくロンドンとパリで始まった。