「宗教がこの世の秩序を強固にしようとするのに対して、霊性はこの世界から逃れようとする。霊的なさすらい人にとって、とても重要な義務の一つは、支配的な宗教の信念と慣習の正当性を疑うことである」
ユヴァル・ノアハラリの『ホモデウス』テクノロジーとサピエンスの(2018年 河出書房新社)を読んでいる。
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宗教というものは、たくさんの教義、きまり、儀式、伝統がある。それらは、この世界の秩序を強固にする。
その世界に安住すれば、それなりの安心と平和があると思う。
しかし、真に魂が躍動することを求めようとすると、そうした宗教から離れなくてはならない。それは、探求であり。答えは、見いだせない。
しかし、探求そのものに意義がある。探求それ時代が、魂の躍動である。そのことに気づいたのは、40歳くらいになってからであった。
答えを掴んだと思ったらそこで終わる。問い続けてゆく旅をあゆむ。答えのない旅が続くよ。
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以下、『ホモデウス』から引用。
宗教は何をおいても秩序に関心がある。
宗教は社会構造を創り出して維持することを目指す。
科学は何をおいても力に関心がある。科学は、病気を治したり、戦争をしたり、食物を生産したりする力を、研究を通して獲得することを目指す。科学者と聖職者は、個人としては真理をおおいに重視するかもしれないが、科学と宗教は集団的な組織としては、真理よりも秩序と力を優先する。したがって、両者は相性が良い。真理の断固とした探求は霊的な旅で、宗教や科学の主流の中にはめったに収まり切らない。
二元論は人々に、こうした物質的な束縛を断ち切り、霊の世界へ戻る旅に就くように指示する。霊の世界は私たちにはまったく馴染みがないが、じつは本当の故郷なのだ。この探求の旅の間、私たちは物質的誘惑や取り決めをすべて拒まなくてはならない。この二元論の遺産のせいで、俗世界の慣習や取引を疑って未知の目的地に敢然と向かう旅はみな、「霊的な」旅と呼ばれる。
そのような旅は宗教とは根本的に違う。なぜなら、宗教がこの世の秩序を強固にしようとするのに対して、霊性はこの世界から逃れようとするからだ。霊的なさすらい人にとって、とても重要な義務の一つは、支配的な宗教の信念と慣習の正当性を疑うことである場合が多い。
禅宗では、「もし道でブッダに出会ったら、殺してしまえ」と言う。もし霊的な道を歩んでいる間に、制度化された仏教の凝り固まった考えや硬直した戒律に出くわしたら、それからも自分を解放しなければならないということだ。
宗教にとって、霊性は権威を脅かす危険な存在だ。だから宗教はたいてい、信徒たちの霊的な探求を抑え込もうと躍起になる