過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

肺結核と言えば2人の友人の話だ

いま診察を受けている天竜病院は、もとは国立結核療養所天竜荘。結核回復者の保護施設。当時は、結核は空気感染といわれ。みんなから恐れられていた。
ぼくの間質性肺炎は感染することは無いので大丈夫だが。次第に呼吸は苦しくなっていく。
結核と言えば2人の友人の話だ。
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Sさん。お父さんは南方戦線に行く、残されたのはお母さんと2人の子ども。
お母さんは肺結核のため、家の敷地の納屋に暮らす。感染してはいけないので、幼い子どもを抱きしめることができない。

そしてある時、別の棟で血を吐いて亡くなる。
お父さんは南方戦線で戦死。戻ってきた遺骨の中身は石ころであった。

2人の兄弟は両親がいないので、養子に出される。
兄は裕福な家に行ったので学業に邁進し朝日新聞の記者になった。友人はお金のない家だったので、なんとか高校は出させてもらったけれどもクリーニング屋に勤める。
でも勉強が好きな人だったので、吉本隆明現象学や仏教学を勉強していた。

いま電話したけどつながらなかった。元気でいるかなあ。
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もう1人は一昨日話した作曲家の友人。「亡くなった父親の倍の年齢になったよ」という

自分で思い描く父親像は大きくて大きくて。父親はやはり結核。子どもを抱きしめたいけれども抱きしめられない。亡くなったのは、6歳の時だった。

そして隣が教会。お母さんは、教会でピアノを弾くような仕事をしていたんだろう。いつも重くて巨大な教会の扉のイメージがある。

支笏湖の近くに住んでいた。そこは日本最北の不凍湖。全く静寂と清明な地。一人で夜に湖の近くに行くと。鶴や白鳥が舞い降りてくる。月が青く輝いていたという。湖水の透き通った青さのためだろうか。

二人の友人のことを思いだした。