過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

子規の『病牀六尺』そのもの

友人に版画家の棟方志功の甥がいた。清朝期の文学を研究して、大学の准教授であった。早期に退職して、この山里に移住。清々とした隠居人のような暮らしをしていた。
たまに訪ねては文学談義を楽しんだ。
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あるとき、訪ねたら家の中で倒れていた。救急車を手配した。
何しろ山奥のひとり暮らしなので、時間はある。たまに畑仕事もしていたが、お酒が好きで酒ばかり飲んでいた。まあ、李白みたいなものか。

それで、栄養不足で痩せていった。ついには、圧迫骨折で入院。しかし、退院したらまた酒ばかりの日々。ついには亡くなった。58歳だった。
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かれが入院する時、いろいろカバンに詰めてあげた。

「本はどうする?」
「ええと、荘子。それから子規を‥‥」

やがて見舞いに行く。
「この暮らしは全く子規の『病牀六尺』そのものです」
たんたんとしていた。
いま彼の家は、壱岐から移住した女性が藍染めや整体などして暮らしている。
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正岡子規は23歳で結核により喀血し、血を吐いて死ぬというホトトギス(時鳥)に我が身をなぞらえて「子規」と号した。

ホトトギスは口の中が赤く、鳴くと血を吐いているように見えるんだそうな。血を吐いて死ぬわけではない。この山里でもよく鳴く。宵のうちと早暁、日の出の頃。
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その子規の随筆「病牀六尺」(びょうじょうろくしゃく)から。
彼の世界は、たったの六尺。寝たきりだった。

「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである」

「病気を楽しむといふことにならなければ、生きて居ても何の面白味もない」

「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」

「死生の問題は大問題ではあるが、それは極(ごく)単純な事であるので、一旦あきらめてしまへば直に解決されてしまふ」