過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

スマナサーラものがたり(74)瞑想について⑱「人格向上のために生きる」

スマナサーラものがたり(74)瞑想について⑱

自分はなぜ生きるのか。
そんなことに迷ったら、とにかく「人格向上のために生きる」ときめてしまうのです。

「なぜ、この仕事をするのか」「なんのために働いているんだろう」など、そんな思いに支配されてしまうときは、「すべては人格向上のため」にやっているんだ、と思えばいいのです。
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人間はゼロで生まれてきて、いろんなことを学びながら成長していきます。「できないことが、できるようになる」というところに達成感や喜びがあって、それを味わいながら、一歩一歩成長していくわけです。それが生きるということです。

そういった生きるいとなみの目的を、「人格向上のため」と定めるのです。
それを生きることのど真ん中におくのです。

それ以外のことは、いわば「俗世間的プログラム」です。俗世間のプログラムとは、仕事で評価される、出世する、お金持ちになる、自分のやりたい仕事に就くなどです。
そういったものを人生の目的にしたら、あまりにさみしいことです。そういったことは、「ついで」にやればいいのです。
 
お金を稼いだり、自分のやりがいを満たしたり、ひとから評価されたりするのは、すべて「ついで」の領域です。人格向上をするかたわらで、生きていくのに最低限のお金が稼げれば、それで十分です。その「出来、不出来」に一喜一憂する必要はありません。
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いかに人格を向上できたか──これがもっともたいせつなことなのです。
そうやって考えていけば、「何を食べるか」「どんな服を着るか」「どんな物を持つか」など、ほとんどのことが重要でなくなります。

どんなに高級な料理を毎日食べたところで、人格がまったく向上しなければ、それはむなしいことです。流行りの服を着て、周囲からうらやましがられたとしても、大した意味はありません。立派な家に住み、高級な車に乗り、ブランド品ばかり持っていることに、どれほどの価値があるというのでしょうか。

贅の限りを尽くし、周囲から羨望の目で見られたとしても、人生のメインである人格向上がまともに機能していなければ、まったく意味がないのです。

この人生に「目指すべき人格」という、太い柱が貫いている。「そこを目指す」という目的がある。それ以外の要素はすべて「ついで」に過ぎません。その時々に対応しながら、やっていけばいいのです。

スマナサーラ長老のインタビューをもとに池谷が構成しています。