過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

この瞬間の出会いは二度とない。それっきり、そこでおしまい。

ひさしぶりにワンコの散歩。しばらく行けてなかった。甲斐犬のランは、家の廊下の日当たりの良い所に暮らしていたので、離れたがらない。もう12歳。年だからね。

老いたので、かつての勢いはまったくない。崖を垂直に上り、川の水面を走り、イノシシの子にとびかかって食らいつく。そんな若き日の姿を思い出す。老いて弱っていく姿を見せてくれている。
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なにしろ連れて歩くこちらも弱っているのだ。
近いうちに死ぬかもしれないと思っているので、出会う人には「これが最後かも」という思いもある。
なので、新鮮だよ。執着もほとんどなし。

今朝は、五人くらいに会ったよ。こちらから、あかるく挨拶。むこうも、ちゃんと応えてくれる。
コーギーを連れたおばさま。甲斐犬を連れた娘さんとは、10年ぶりかなあ。もう21歳になって大学生という。
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よくお世話になった96歳のMさんの畑は、亡くなって草茫々になっていたが、息子夫婦で見事に復活した。大根やら人参やら育っていた。夫婦で畑仕事、理想的だ。そんなことで立ち話。

マッサージしている方の家を訪ねると、玄関にメダカをたくさん飼っていた。家は整然としている。ランに美味しいおやつをいただいた。

その隣の91歳のひとり暮らしのMさん。「安否確認だよ」と訪ねる。「体がつらいなら、代われれば代わってあげたい」と言ってくれる。

うちの隣のSさんは一輪車で畑に肥料を運んでいた。一昨年、ご主人を亡くしてひとり暮らし。「すべて自分でやるしかないからね」と。
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まあ、いろいろな人がいる。なかには憎たらしい人だっている。でもそのうち死ぬと思うと、わだかまりなく挨拶できるってもんだ。

こちらはそのうち死ぬ。きっと長くない。そして、あちらもそのうち死ぬ。みんな死ぬんだ。

この瞬間の出会いは二度とない。それっきり、そこでおしまい。
はい次、はい次。そうした出会いが次々と起こる。

出来事はすべて新しい。無常であり、縁起である。