過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

いちりん楽座 「さあ、いかにして死んでいくか? 」



いちりん楽座 11月4日(月 振休)14時〜16時(開場13時半)
テーマ「さあ、いかにして死んでいくか? 」
参加費無料。どなたでも。
GoogleMeet 下記をクリックするだけで参加できる。
https://meet.google.com/boi-xwkb-qxa
「さあ、いかにして死んでいくか」「でも、いまできることって何?」「そもそも死んだらどうなる?」など、死に関わることを語り合ってみたい。
今回の検査入院で私の間質性肺炎は確定した。余命はあと数年とみた。ヘタしたら数ヶ月。まあ10年てのは、ムリみたい。それなりのカルマだから、仕方なし。
死に至る道は、ひとつのもっとも枢要なプロジェクトに据えた。
ということで、カタリバを積極的に進めていくことにした。
肉体労働は無理になったけれど、話したり書いたりは問題なし。
  ▽
これまで「死んだらどうなる?」など、10数回のカタリバを主催してきた。
このテーマは永遠だ。これが正しいとか、なにもない。
はっきりしているのは、「かならずいつか自分は死ぬんだ」ということだけだ。そのことが、他人ごとじゃなくて、「わがごと」になってきた。
「死」そのものはまさに瞬間。いつ自分に訪れるのかわからない。死後があるとかないとか、誰にもわからない。そもそも自然災害、事故、戦争、飢餓、疫病、いろんな要素で死は起きるわけだ。いつそれが起きるのか、それは誰にもわからない。
 ▽
ただ、「死に至る過程」が苦しくて痛くて不自由で、つらそう。そこがとても重くてイヤーな感じはある。
死の意味、痛みの意味、つらさの意味、そんなことも語りあいたい。
※池谷が進行役。きめられた道筋で語り合っていくわけじゃあない。準備なんかない。レジメもない。参加者の体験や思いによって、話題は動く。
話題は、その時の流れで変化する。「死」のテーマからずれることもある。講座や講演のような、きちんとしたレジメに沿ったものなんかない。死についての本作りの編集会議じゃない。途中での入退室はまったく自由。
「もっとこんな話がしたかった・聞きたかった」と言う人もいる。そういう人は、その場で発言するなりチャットで発信して、自分で流れを変えればいい。たまにとんでもない方向に行ったら池谷が進行役でコントロールはするけれど。まあ、そういうカタリバ。
 しはしば時間は延長になります。ときに6時間くらい話し込むこともあります。