過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

エホヴァとの対話 聖書という共通古典

「池谷さんは二階から降りてきたときは、見るからに老人です。しかし、好きなことを語る時、生気に満ちています」と。エホヴァの人がこう言っていた。

彼と私は、同年代。しかも、かれは小腸にガンを発症し、手術は不可能として、生きている。そうした余生の短い日々を、夫婦で布教にきているのだ。

奥さんは彼がうちで話している時、別の家で布教。ダンナはわが家で聖書話。そして、奥さんが向こうの布教が終わると、ケータイに連絡がある。ともに連絡しあって帰宅する。片道、50分の道のり。まあそういう夫婦ぶりが、大したものだと尊敬する。

──大したもんですねえ。夫婦仲良く布教して揺るがない。ぼくなんか、無理ですから。
「男は柱として、がんばらなくちゃいけないですからね。励まし合ってきています‥‥。あっ、携帯を切るのを忘れてた。妻に聞かれた」

──良かったね。悪口じゃなくて、いやあたいしたものです。お互い、もすこし長生きしてがんばりましょう。
  ▽
エホヴァの方は、定期的に毎週来てくれる。
聖書を紐解いて、説明してくれる。私は聞いて質問する。

──要するにこういうことですか。
聖書がいかに予言をして、いかにそれが事実なって現れたのかということ。聖書によれば、ますます戦争、飢饉、地震などが起きて世界は崩壊していく。しかし、神のことばは真理であり、滅びることはない。神を信ずる人は救われる。そういうことに、集約されると。

「はい。そうです」
  ▽
──そうすると、いくつか問題点があると思います。たとえば3つ。

①神がいる(ある)、そして神が万物を創造したことが大前提になっている。その神が、いるのかいないのか、神がこの世を創造したのかどうかは、だれも立証できない。

なので、信ずるかどうかしかない世界。しかし、わたしは神に出会ったことがない。神の奇跡も体験していないので、神を信じられない。だが、生命の神秘、大自然の摂理の不可思議さは感じる。それを神と名づければ、そうかもしれないが。

それに対してのエホヴァの説明は、「大自然を観察するほどに神の偉大さがわかってきます」というものであった。

②では、もしも神がいたとしましょう。それで、信ずる人を神が救うのかどうか。信じない人を救わないのかどうか。そこが立証されない。さらには、その救いが自分の描く救いと違うのかもしれない。

「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、入ろうとしても、入れない人が多いのだから。」(ルカによる福音書

③サタンというものを持ち出す。「サタンよ去れ」とイエスは言う。救いの道の邪魔をする存在だ。しかし、神が万物を創造したとすると、サタンもまた、神の産物ではないのか。サタンは、プロレスのように、悪役を演じているのではないか。神とサタンの八百長ごっこ

「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。」(マタイによる福音書
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そんな話をしていた。
しかし、こうして毎週来てくれると、気分転換になっていい。学びになっていい。

エホヴァと話していて、キリスト教の歴史というものを考えた時、何しろ2千年にわたって信仰が続いている。そして、世界の文明をリードしてきた源泉とも言える。

──キリスト教の強みはなにかというと、神の言葉、神の存在ということになるんだろうけれど、ひとつには「聖書」の存在でしょうね。

その内容はともあれ、共通の古典がしっかりとある。その聖典をベースとして話ができるという文化がすごい。

聖典というのは、いわば「閉じた体系」。つまり、聖典として完成していて、追加もされない、改版もされない、削除もされない。そのようにきちんとした古典の体系が共通認識であるというのは、すごいことだと思う。

まあ、そんな話をしたのであった。