過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「心身一如」であるがゆえに、死んで身体がなくなれば、心が身をもとめる

「心身一如」だから、死んだら身体はない。だから、心もない。
そういう理論もある。
だが、「心身一如」であるがゆえに、死んで身体がなくなれば、心が身をもとめる。依存しようとする。で、死後も「心身一如」となる。そういう考えもありうる。
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心というものは、身体に依存している。五官(眼鼻舌身意)に依存している。
その五官によって、外界を認識している。
それに依存しているとも言える。

そして、心は五感がなくなっても、身に依存しようとして、心が新しい身を求める。それは、新しい人間の肉体でもあり、肉体をもたない霊的な存在(フィールド)だったりする。まあ、たとえばいわゆる餓鬼とか低級霊のようなもの。

それが転生の仕組みのひとつのヒントかもしれない。
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ただ、その身体をもつめる心はいったい、なんなのか。
霊魂とか、真我とか、霊的な何者なのか。
わからない。

そして、その輪廻を形成する「我」そのものが、じつは肉体に依存する実体のないものであると仏法ではみる。固定したものではなく、瞬間瞬間、生起するものであると観る。
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いまこの瞬間ですら、自分・我は瞬間瞬間、生起する。
まあ、いってみれば、蝋燭の炎のようなもので、実態はないけれどつねに燃え上がっている。燃える材料がなくなれば消えるが、燃えるというエネルギーは続いていて、また新たな素材を求めて燃えていく。

まあ、そんなものかなあと、まったくの仮設である。
何しろ死んだことはないしね。わからない。
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ただ、この瞬間瞬間の自分というものは、条件に応じてすごく変化する。
感情も変化する。変化するということは、いろいろな可能性があるということができる。無常という観念は、創造の世界につながると思っている。