過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

徴兵制度について

ある小役人に村人がペコペコ、へいこらしている。「村長でもないのに、あの小役人はどうしてあんなに威張っているんだろう?」子どものとき、とても不思議に思った。

後でわかったのは、その役人は、赤紙召集令状)を送る際に、どの人に送るのかを決める仕事をしていたのであった。

みんな戦争に行きたくない。行けば、ほぼ死ぬ。一家の大黒柱、あるいは跡継ぎが戦死したら、どうなってしまうのか。みんな戦々恐々としていた。なので、赤紙召集令状)を送るのを決める役人には、へいこらするしかない。「どうぞ、うちだけは赤紙を送らないでいただきたい」と。

木下恒雄さん(90歳)から聞いた話である。
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徴兵制度は明治維新にできた。
「徴兵令」は1873年明治6年1月10日に公布された。
それによると満20歳以上の男子は兵役の義務を負う」と定めている。
 当初は多くの免除規定があった。家の跡継ぎである長男や、 役人の息子などは兵役を免除された。

官庁勤務者、官公立学校生徒、医術等修行中の者、一家の主人のほか、270円の代人料を収めた者なども免除の対象であった。
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長男は免除されるのだから、次男でも養子にだして長男にすれば逃れられる。そこで新家をおこして、若いのに結婚させて一家の主人にさせる。そんな細工ができた。

だが、昭和期に入ると徴兵は名誉という風潮になり、長男でも徴兵に自ら行くようになった。徴兵に行かないと肩身が狭い、蔑まされるようにすらなった。
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子どもたちは、赤紙召集令状)が来た家には、何も知らずに、日の丸の旗を振って「おめでとうございます」と祝いに行った(90歳のデイの利用者さんから聞いた)

古関裕而の作曲した軍歌「露営の歌」。その中に「夢に出て来た 父上に 死んで還れと励まされ さめて睨むは 敵の空」とある。

「生きて帰れではなくて、〝死んで還れ〟」である。親が夢に出てきて「死んで来い」と励ますのが、日本の戦争であった。

戦死したら、箱に収められた遺骨が遺族に渡される。が、中身は「石ころ」であった。
それはそうだ。最前線で戦っているときに戦死した兵士を荼毘(だび)に付して遺骨にする余裕などありはしない。

ましてや、ガタルカナルなど餓死で全滅(立つことの出来る人間は、寿命30日間。身体を起して座れる人間は、3週間。寝たきり起きれない人間は、1週間。寝たまま小便をするものは、3日間。もの言わなくなったものは、2日間。まばたきしなくなったものは、明日と言われた:五味川純平ガダルカナル』より)、ノモンハンインパール作戦なども大敗退、南方戦線にいく輸送船など潜水艦による爆弾で沈没、特攻隊など遺骨が残るはずがない。
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友人のSさんから聞いた。
父親は南方戦線にいって戦死。遺骨の中身は石ころであった。
そして、母親は結核を患っていたので、わが子と接することができずに別棟に隔離されていた。そして、血を吐いて亡くなっていた。

Sさん兄弟は、両親がいないので、養子に出された。兄はお金持ちの家の養子になり、優秀であったので朝日新聞の記者に。自分は、クリーニング屋に養子に出され、その仕事を継いだ。

Sさんは、学びが好きであった。一所懸命に仏教を学び、吉本隆明などを読んでは探求していた。会うたびに、吉本隆明とか現象学の話をしていた。いちどお訪ねしたが、ものすごい書籍の量であった。いま、お元気かなあ。
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やがて日本にそういう時代が、ふたたび来るんだろうなあ。戦争で経済を回そうという動き。人の命は二の次、三の次。

日本の高度成長も、朝鮮戦争ベトナム戦争の特需によるところも大きい。ましてやアメリカなど軍産複合体だ。どこかで戦争がないと経済が回らない仕組みになっている。ウクライナもガザも経済原理。