『新約聖書』のイエスの生涯で印象的なのは、もっとも信頼している弟子のペテロがイエスを否定するところだ。
イエスは、ユダが裏切り、自らが捕えられて十字架にかかって死ぬことを知っていた。そして、最後の晩餐の時、ペテロに向かって予言する「おまえは、わたしを否定する。二度否定すると、鶏が三度鳴くのだ」と。
その個所を共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)で確認していくと、微妙に違う。
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弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。
ペテロも逃げた。逃げて隠れていた。
そこに女中が来て、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」という。ペテロは「そんなのことは何も知らない」三度、激しく誓う。するとすぐ鶏が鳴いた。 その時、ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。(マタイによる福音書)
この描写だと、ペテロは十字架を背負ってゴルゴダの丘に向かって歩かされているイエスを遠くから見ている。おそらく、農家の納屋あたりに隠れていたと思われる。
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「ルカによる福音書」だと、イエスが捕らえられた時、ペテロたちはみんな逃げた。けれども、ペテロは遠くからついて行った、人々は中庭のまん中に火を炊いて、一緒にすわってなりゆきを眺めている。ペテロもその中にすわっていたとある。そのときに、女中が言うのだ。
「たしかにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから」。ペテロは言った、「あなたの言っていることは、わたしにわからない」。すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。
主は振りむいてペテロを見つめられた。
そのときペテロは、「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。 そして外へ出て、激しく泣いた。(ルカによる福音書)
ルカによれば、イエスは、自らを「知らない」と否定するペトロを見つめたのだ。お互いに目があったことだろう。
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死人を蘇らせ、病人を治し、海の上を歩き、一つのパンで数千人を満腹にさせたり数々の奇跡を起こした人が、自分自身を救うことができない。そして、弟子たちはみな逃げてしまい、しかも自分を否定する。
そのような情けない、みっともない弟子たちが、後に布教して殉教していく。そして、やがてパウロが現れて、キリスト教はローマ帝国にひろまり、ついには国教になっていく。
なぜに、裏切り否定した弟子たちが、やがて教えを広めて死んでいったのか。
そこが、キリスト教の不思議であり、中核の部分でもあると思われる。