過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

ほんらいの自分の意図ではないのに、そのように動かされる

「使われている」というありようがある。
ここでは、be in use(ひろく使われているとか、便利とか、役に立つとか)という意味よりも、使役されている。ほんらいの自分の意図ではないのに、そのように動かされるということで使う。

たとえば、だれかとやりとりしていて、なにか感じる違和感、抵抗感。
そこをみていく。
「あっ、この人は使われている」と感じることがある。
なんらかの教義とか、イデオロギー、あるいは思い込みに使われているといえる。

話している本人は、自分で自発的に話しているし、語る言葉は自分そのものも思っている。しかし、こちらからは「使われている」と感じる。なにか背後から動かされている。
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洗脳とも言える。あるいは、社会通念、しきたり、風習に使われるってこともある。
こうしなくちゃいけない、ということに使われることもある。
まあ、ある種の宗教団体に属している人のありようは、ほとんど「使われている感」がある。

で、そういう人とやり取りしていると、なかなか埒があかない。
だって、自分でない人、ほんらいの自分でない人とのやりとりだから。
いわば、たくさんの引き出しの中身を見せられても、そこにその自身が感じられない。なにか徒労感、疲労感、無力感を感じる。

あるとき、その人がほんらいの自分におちつくときがある。すると、おちついたやりとりができる。
これ、自分自身でも起きることなんだなあ。なかなか気づくのは難しい。