過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「死」というのは、かならず我が身に訪れる大問題

うちの近くで自殺した方がいる。まだ20歳。成人式が終わった翌週に亡くなったという。そんな話を昨日、聞いた。
どうして自殺したのか。わからない。親の嘆きを思うにつらすぎる。
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しかし、自殺が不幸かというと、わからない。
死んだ世界が、限りない至福に満ちたものかもしれない。

13分間の心肺停止というまさに臨死体験したした友人がいる。
彼にとって、その「臨死体験」は、無限の安らぎと至福に満ちたものであった。「私」という意識のない「覚醒」が永遠の今ここにひたひたと広がっていると感じたという。
よみがえりから身体は不自由になったものの、思考能力にダメージは来ていない。執筆活動を活発にしている。
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シスター(キリスト教)で臨死体験をした方を知っているが、やはり至福の体験で、それまでの人生とは全く異なったありようにシフトしたとも言う。

だが、それらは「臨死体験」であって「死」そのものではない。それぞれの特性、それまでの生き方に相応したものであって、至福体験がだれにでも訪れるものなのか、それはわからない。
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知り合いの僧侶は、心筋梗塞臨死体験をした。そのとき、真っ暗になり、真っ暗な世界に黒い雲がもくもくもくと湧いてきたという。「ああ、残念」という思いをしたという。

かれは、よみがえったとき、このままではいけない。修行して悟らねばと、ミャンマーに行き瞑想の修行に打ち込んだ。けれども、そんなに打ち込んで悟れるものでもないわけだ。剣道や柔道とは違うからね。
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今年の死亡者数は、おそらく150万人を超えると思う。突然死が増えている。また、これから起こるであろう食料・エネルギー危機、経済の大停滞で、生活苦、先行き不安から自殺する人も増えてくるだろう。

死んでしまえば、そこで現世の暮らしはもうおしまい。来世があるのかないのか。霊界があるのかないのか。それは、至福体験なのか苦しみ続けるのか、転生するのかしないのか、まったくわからない。
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ともあれ「死」というのは、かならず我が身に訪れる大問題。自分は必ず死ぬ、そして相手も死ぬ、そういうみんな死ぬ。なので「やれることは、いまやっておく」という生き方。いまをたいせつにするという生き方でしかないかなあ。

きのう訪ねたA洋品店の奥様と話して、話は盛り上がって、死ぬとは生きるとは、という話しに入ろうとした矢先、あかりが「もう帰ろうよー」とせがむので、そこで終わった。