過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

海を見て、原発を見て、友人の父親の日章旗のこと

山里育ちのあかりは、まだ海を見ていない。まだ暑い。海は気持ちがいいだろう。
「そうだ。海を見よう。福田港(磐田市)に行こう。獲りたてのシラス丼を食べよう」。あかりと妻と康ちゃんと出かけた。
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海に着くと、サーフィンしているのは、ほとんどブラジル人。浜に出ると、打ち寄せる波、打ち上げられたフグやクラゲもいた。カニ、巻き貝などを見つけた。おいしいシラス丼を食べた。あかりはみんな初体験。
「うん、ここまできたなら、浜岡原発を見ておこう。爆発してからではもう見れないし。津波対策で作られた防潮堤も見ていこう」
原発をしかとこの目で眺め、原発資料館で観察してきた。法然上人の師匠(皇円)が龍となって池の深淵に眠っているという桜ヶ池も訪ねた。法然も訪ねている。
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せっかく御前崎に来たのだから、友人の中山さんをお訪ねすることにした。
中山さんが春野に来ていただいたのは7年前で、あかりは赤ちゃんだった。だが、いつもFacebookでやりとりしているので、空白の年月はまったく感じない。
いろいろ興味深いお話を伺った。
ひとつは、浜岡原発原発依存体質の住民の体質、市の行政のあり方。巨大な産廃施設が建つことに反対して、中山さんが先頭に立って住民投票の流れを作って、産廃施設をあきらめさせたのは二年前のこと。
2つ目は、春野の秘境と呼ばれる「京丸」で、中山さんは京都大学今西錦司博士とばったり出会い、以来、山岳のフィールドワークを通しての親しい交流が続いたこと。今西錦司、西堀栄三郎、本多勝一梅棹忠夫など京都大の優れた学者、ジャーナリストの話。
3つ目は、戦死された父親(中山達郎さん)の日章旗が不思議な縁で戻ってきたこと。お父さんの日章旗も見せてもらった。今回は、その話について書く。
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父親の達郎さんが戦死したのは、終戦間際の昭和二十年八月。ボルネオ島(サマンタン島)の奥地だった。飢えと疲労で、マラリアにかかかって亡くなった。遺骨の一部は、戦友がもってきてくれた。
出兵したのは、二度目だった。昭和十九年七月。中国大陸の戦線から戻って、再びの招集だった。
中山さんは父親に会ったことはない。中山さんは母親の胎内にいたのだ。出兵した三か月後に生まれた。
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出兵する際、家族、親類、友人ら百三十人近くの人が日章旗は無事を祈って墨で書き込んだ。
達郎さんが肌身離さず持っていたその日章旗が戻ってきた。51年後のことであった。
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数奇な運命を経た日章旗が、どのようにして戻ってきたのか。
ある時「オーストラリアの知人から依頼され、日章旗の持ち主を探している」という神奈川県の女性の投書が新開に掲載された。日章旗に記載されていた名前から達郎さんの日章旗と判明した。
オーストラリアの女性は国際交流のボランティアとしてオーストラリア・メルボルン郊外のサイルという町で小学校の日本語教師をしていた。その児童の父兄のデビットさんが「父親から譲り受けた日章旗を遺族に返したい」と相談してきたという。
それで、啓司さんはすぐにオーストラリアに渡り、十一月三日の晩、デビットさんから日章旗が返された。
デビットさんの話では、日章旗は軍人だった父親が終戦直後日本兵から没収した品物の中に含まれていたという。
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日章旗を手にした中山さんは、「自分が生まれたことえ初めて父に報告した。父の当時の汗やにおいが染み込んだ布から、直接父の息吹を感じた。ようやく父と抱きあえた」と泣いた。
母親は、「ようやく夫が家ってきた」と日章旗に頬ずりして泣いた。日章旗は、達郎さんの位牌を安置した仏壇に供えられた。
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出かけるたびに、人に出会い、深い歴史を聞かせていただくことになる。
あかりはもう学校には行かないことになったので、週イチは、こうして海や川、山に出かけて人に会うことにする。