過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

笑顔は翁そのもの 和紙づくり70年 大城忠治さん(93歳)

いろいろ仕事がありすぎて、停滞していた原稿執筆。「フツーだけどフツーじゃない山里の90代」(すばる舎 刊行予定)。すこしずつ、また手を入れている。
なにしろみなさん高齢なので、はやく本を出さないと亡くなってしまう心配がある。現におひとりは亡くなられた。さきほど電話したら、一昨日、入院したという方もある。
ということで、投稿しながら原稿作り。感想、アドバイスくださいね。
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笑顔は翁そのもの 和紙づくり70年

大城忠治さん(93歳)

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◉開墾地に入り 道を作り集落を作ってきた
大城さんの住まいは、標高350メートル余の山上にある。天竜区の平松という戦後の開墾地である。いま暮らしている住民は9世帯だ。
19歳のとき開墾に入った。もともとは山の上の原野である。道を切り拓いていくのは苛烈を極める。麓から山の上まで、住民たちが岩をどかし木の根っこを掘ってゆく。なにしろ重機のない時代である。ツルハシやクワで掘り、モッコで土を運ぶ。結婚して夫婦で暮らす家は、建築資材を麓から山の上まで運んだ。
みんなで力を合わせて集落を作って維持してきた。苦楽をともにしているので、それぞれ気心がしれた間柄だ。
しかし、なにしろ山の上だ。買い物などで2キロの山道を登り下りする。作物の出荷は思うようにいかない。現金収入を得るのも難しい。自給自足に近い生活を送らざるを得ない。
山の上は水が引けないので、田んぼはできない。30分余かけて山の下まで下りて、数反の田んぼを耕した。山里は、猪や鹿によって、稲の実が食べられたり田んぼが荒らされてしまう。柵を作って獣害対策をする必要がある。稲刈りのあとは、山の上に稲の束を運んで天日干しをする。七段の稲架掛けをした。
30代になって養豚業を始めた。はじめは3頭の豚からスタートした。それが、どんどんと子を殖やして、数年後には500頭にもなった。その子豚を出荷して生計を成り立たせた。
豚の飼育は臭いがきつい。町中ではできない。山里でも隣家が近いと苦情が出る。そこは、山の上の開墾集落ならでは可能な事業であった。
豚に毎朝、餌をやる。豚の糞のついた長靴で軽トラックに乗って、市長室などにも出かかけた。こうして養豚業は30年間続けた。だがあるとき、豚の餌をつくるために煮炊きしていた時、火が豚舎に燃え移って、全焼してしまった。そのことがあって、養豚はあきらめたのだった。
◉手間のかかる和紙づくり
大城さんの暮らしている集落は、かつては和紙づくりが盛んで「阿多古(あたご)和紙」として有名だった。
和紙は、江戸時代に庶民の間に和紙が広まり、生産量が急増する。傘や浮世絵、かわら版、ちり紙など、庶民の日用品としても利用された。日本各地で和紙が大量に生産されるようになった。ところが明治以降、洋紙の普及や他の素材への置き換えが進み、和紙の生産量は減っていった。
和紙づくりは手間がかかる。経費的にわりが合わず生計が立たない。50〜60軒あった和紙づくりの家は、いまはほとんどが廃業してしまった。ただひとり大城さんだけが、阿多古和紙を営んできたのだった。
洋紙は200年ほど経つとボロボロになってしまうが、手漉きの和紙は1000年以上ももつといわれる。
和紙の材料は、楮(こうぞ)、三叉(みつまた)、雁皮(がんぴ)だ。繊維質の強い低木樹だ。それらを栽培した。難しいのは、山には鹿などが多くて、若木が食べつくされてしまうことだ。
さて、和紙の作業工程である。すべてが手作業だ。いかに手間がかかるかわかると思う。
①楮や三叉などの原料を刈り取る。
②一定の長さに切って蒸し釜で蒸す。
③原料となる皮を剥ぐ。
④表皮をけずる
⑤皮をやわらかくするために、灰汁やソーダ灰などのアルカリを入れて煮る。
⑥不純物(塵)を手で根気よく取り除く。
⑦皮を打ち棒でたたいて、繊維をより細くほぐす。
⑧漉き舟に原料、水、ネリ(繊維が沈まず、分散させるようにする粘りのある液体)を入れ、簀桁ですくって縦横にゆらし、一枚一枚漉く。
⑨漉いた紙を圧搾機などでゆっくりと水をしぼり出す。
⑩湿紙を一枚ずつはぎとって、木の板にはって天日で乾燥させる。
⑪乾燥した紙を一枚一枚、木の板から剥ぎ取って、寸法を揃えて製品とする。
大城さんは、楮や三叉だけではなく、素材として竹の皮やマコモなどを混ぜたりして味わいのあるものを工夫している。
大城さんの漉いた阿多古和紙は、地元の小学校と中学校の卒業証書にもなった。阿多古和紙に校長先生が直筆で書いて、一人ひとりに卒業証書として手渡した。
30代から和紙の創作人形もつくった。テーマはかつての日常の暮らしぶりを表したものだ。筏を漕ぐ人たち、馬や牛を引いての材木運び、遠州大念仏の踊り、和紙づくりの作業風景など。これらの作品は、上阿多古小学校に展示してある。
また、「おくない」(おこない)という祭の面も作った。「おくない」は国の指定重要無形民俗文化財になっている神事、民俗芸能だ。
毎年、1月3日に村の寺の本堂で行われる。その年の安全、五穀豊穣、子孫繁栄などを予祝する40余もの舞や仮面劇が上演される。いわば、いまの能や狂言の原形である。
愛知・長野・静岡の各県境の山間では春祈祷(はるきとう)として、それぞれの土地の観音堂阿弥陀堂などのお堂でおこなわれてきた。田遊び・猿楽・田楽などの中世芸能の一つである。大城さんは、その仮面を和紙で作って奉納してきた。
また毎年、秋祭で上演される田舎芝居の脚本も書いていた。数年前から、芝居を演じる人たちが高齢でいなくなってしまったのは残念なことだが。
◉山道を舞うように跳んでいた
大城さんはもとより強靭な方だ。私が初めて出会ったのは80代の頃で、大城さんの跡をついて山道を歩いていくと、とっても身軽な動きに驚いた。岩から岩に跳んでいた。まるで、天狗が舞うようにだ。
「土産に柿を持っていくか」と言って、さっと屋根に飛び乗って柿をもいでくれた。
さすがに90歳を過ぎて、かつてほどは体は動けなくなった。しかし、芯が丈夫で柔軟性がある。
「こないだイノシシとぶつかってのぅ。崖からころがってしまったよ。あちこち痛いけれど、まだ生きてるよ。歳には勝てんねぇ」。そんなものすごい93歳である。
妻とともにふたり暮らしであった。妻は大城さんを影で支えており、とても仲のいい夫妻だった。いつも話し合ってものごとをすすめていた。
ところが、3年前に妻は体調を崩して施設のほうに移ることになった。やはり寂しい思いをする。いまは長男の夫妻が、同居している。
90歳になったとき、運転免許証も返上したので、外に出かけて人に会う機会が少なくなった。しかし、大城さんの人柄を慕って、和紙づくりのワザを継承したいという人達が訪ねてくるようになった。
◉100歳の和紙づくりをめざして
今年の2月に、私がくんま(浜松市天竜区熊)という山里で、大城さんの和紙の展示とお話、和紙づくりの実演を企画した。
あいにく、その日は雪が降って道に積もるというたいへんに寒い朝であった。そこは、バスも通わない山里である。また、最寄り駅からクルマで1時間はかかる。参加したい人からは、「ノーマルタイヤなので雪が心配で行けない」という電話も頂いた。
「これでは開催は難しいかなあ」と思ったが、たった数名でもイベントは開催すると決めた。
ところがこんな雪の寒い日にもかかわらず、女性や子どもを中心に和紙づくりに関心を持つ人50名近くが参加してくれた。
川の畔で寒風が吹くなか、和紙づくりが行われた。大城さんの朗らかで明るい人柄で空気がとても心和んだ。
参加者からは「100歳まで元気に和紙をつくってくださいね。100歳の大城さんの和紙なんて、どれほどすてきでしょう」という声も聞かれた。
大城さんの実演が終わってから、電話をいただいた。
「きょうはありがとう。100歳の和紙がすてきと言われた。それもいいかもしれんのう。そう思うと楽しうてならんなあ」。
年をとるほどに人は神に近づくという、まさに大城さんの笑顔は翁そのもの。
古来、翁は神の化身である。
なにがあっても紛動されない。すべて笑い飛ばしてしまえる人。
風吹かばどうぞ風よ吹いておくれ、雨降らばどうぞ降っておくれ。大城さんは、いわばTAO(無為自然)の人だなあと思う。

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