過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

無明のシステムに投げ込まれた状態から、いかに脱することができるのか

ブッダは、人間のありようを洞察しているのだと思う。
人間は存在自体が自動反応のシステムに投げ込まれた存在である、と。


煩悩の源である「貪瞋痴」(とん・じん・ち)という三毒を通して考えてみた。
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瞋(いかり)は、いかにして起きるのか。


現実は、つねに苦(ドゥッカ)=思い通りにならない、どこまでいっても不満足。
この不満足、不快な状態に対して、「嫌だ」「離れたい」「脱したい」と思う。


すなわち、現実のあるがままの否定が起きる。
それが、ブッダのいう「瞋」(じん=いかり)のもと。
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そして、不快から快に向かおうとする。それが、渇仰であり、「貪」(どん=むさぼり)のもと。


しかし、いっときは、快を得てもまた、不快になる。苦(ドゥッカ)=思い通りにならない、どこまでいっても不満足。


不快→快→不快→快……と行ったり来たりする。
いわばそれは、自動反応として起こる。
その反応として、嫌だと思い、快への渇望が起こり、ということに気づいていない。
その状態を、「痴」(ち=おろか)というのではないかと思う。
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それらを支える源泉にあるのが「無明」。
すなわち、「我がある」という思い。


このあたりが、ブッダの教えのひとつの基軸と思われる。


そして、たんなる洞察ではなくて実践的な道として説かれているのが仏教の独自なところか。
無明のシステムに投げ込まれた状態から、いかに脱することができるのか。


その道を、細かなマニュアルとして表されているのが、パーリ仏典ではないかと思う。とにかく、実践して自分で確かめなさい、と。